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ピリピ人への手紙3章を読みながら

おはようございます、satoです。
先日聖書通読2周目を終えて3周目に突入…する前に、2周目終盤でちょっと消化し切れなかった新約聖書の部分を読み返しております。
昨日はピリピ人への手紙を読んでいたのですが、その3章にこのような内容がありました。

 3:8わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、 3:9律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。 3:10すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、 3:11なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。

口語訳聖書 ピリピ人への手紙3章8−11節

こちら、その前の聖句でパウロ先生自身かつてユダヤ教の熱心な信仰者だったことを受けて「かつては益だと思っていたこれらのことを損だと思うようになった」という告白に続くお話しで、イエス様を知った知識の価値を思って「一切のものを損だと思う」と話していました。

当初私は「これは言い過ぎなのでは…?」と思っていました。
それは私自身「イエス様を知り、近づく上で様々な知識が役に立った」からです。
世の中のあらゆることは真理に結びつき、真理に至る道になる、というのが私の信念の一つで、実際様々な物語を深く考えることを通して御言葉を理解するようになりましたし、神様ともっと近づいたからです。
だから、私にとっては神様を深く知る上で全てのものに価値があると思っていました。

一方で、「聖書にこのように書いてあるから、私の信仰は足りないのでは…?」とも考えました。
それで、改めてこの聖句について考えた時、よくよく考えたら、パウロ先生が話していたのは「自分の古い考え、習慣」のことではないか?と気づいたのです。
確かに、かつてパウロ先生は律法に厳格に従って生きていましたが、それを捨てて損だと思うようになったわけです。

それで、私自身も「かつてはこのように生きたらいいと思っていたけど、今やそうしなくなったもの」はあるのかなと思ったら、いろいろありました。

かつてはこれが自分の生きる指針だったように思います。
しかし、摂理でイエス様のことを知って、御言葉を聞くようになってからはこれらの考えに執着しなくなりました。
思いっきり喜びますし、自分の気持ちをある程度優先するようになりました。今にして思えばかなり生きやすくなったなぁ…と感じております。

「人生は死ぬまで暇潰し」というのは、生きる目的がなくてただなんとなく生きていたから「一生暇を潰すために何かをやるのだな」という考えを持っていた、ということです。
これは大学生になって一人暮らしをするようになってから気づいたことです。
でも、何をやっても結局人生自体が退屈で…今にして思えば「虚しい」と思っていたのでしょう。
今や、人生に「神様と一生共にする」という目的を見出して、そのためにいろいろ頑張っていて充実しているのを感じます。

こう考えると、過去の私の考えを今や「糞土のように」…というか全くないものとして生きているなぁと実感します。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。
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