おはようございます、satoです。
今日は「仏教」の話からについて「宗教の変遷」について話したいと思います。
日本でも多くの人が信仰を持っているとされる「仏教」。
皆が実際にどれだけ信心を持っているかはさておいて、日本の文化には仏教が大きく影響しています。
(最も、日本は文化の面では神道もキリスト教も関係なく取り入れている感じではありますが…)
その中でも特に言われているのが「極楽浄土」。
簡単に言うと「人は死んだらその行ないにしたがって極楽浄土に行く」という話です。あくまで簡単に言えばですが。
極楽、というのは「幸福のあるところ」、「幸福に満ち満ちているところ」という意味なのだそうです。
幸福の満ちているところ、と聞くと…
また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。 … 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。
口語訳聖書 ヨハネの黙示録21章2~4節
この聖句を思い出します。そう、聖書では天国とは「死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない」ところと書かれているのです。もちろん、摂理でも天国とは「苦しみのない、永遠に喜びの続くところ」として教えられます。
そもそも、仏教には本来「極楽浄土」とか「死後の世界」という概念はありませんでした。
仏教の始祖である釈迦が話したのは「この世はすべて虚しい」というところでした。
そして、その虚しさは「世の中のものを得ようとするから」来るとして、その欲望から離れることを説いたのでした。これが本来の「涅槃」とかの意味でした。
本来仏教とは「世の中の苦痛から解放された生」がゴールだったわけです。
ところが仏教を広める中で、キリスト教などの「天国、地獄」という概念に影響を受けて、「極楽浄土に行くことが大事」という浄土信仰が芽生えました。
日本でも浄土真宗は比較的多いと思います。ちなみに、南無阿弥陀仏というのは「阿弥陀仏を信じてます」という意味で、これを唱えれば極楽浄土に行ける…らしいです。
これがどうしてそうなったのかは分かりませんが、一つには「より多くの人に信じてもらうため、別の宗教を取り入れた」ということが考えられます。
キリスト教でも、広めるときにその地の土着信仰を取り入れたケースがいくつかあります。
たとえば、一か月後には「ハロウィン」がありますがこれは本来古代ケルトでの宗教行事でした。
そこにカトリックは「聖人の日」を設定しましたが、これはハロウィンを取り入れ信者を増やす狙いがあった、という説があります(諸説あり)。
そういうわけで。
宗教が広がると「より信仰を広げよう」として、別の宗教のいいところだけを取り入れて自分の宗教と融合させることがあります。
ただ、私が思うに…どんなにいいところを取り入れても「根本となる思想」は変わりません。
仏教だって「苦痛から逃れる、煩悩から離れる」というところは変わりませんし、キリスト教は「神様を信じる」というところは変わりません。
そして、その信じた思想の先にあるのは「生活」です。
よって、「どんなにいいことを話しても、生活を見てみないといけない」です。
生活が苦しければ、やはりどこか考えが現実とずれているのかな、と思います。
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「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。
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