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摂理人の疑問「教会の境界線ってどこまで?」

おはようございます、satoです。
今日は「教会」について気になることがあったので、書いてみようと思いました。
タイトルは「教会」と「境界」をかけただけです(笑)

教会、と聞くと皆さんはどんなイメージを浮かべるのでしょうか?

だいたい、このように上に十字架がついている建物が思い浮かぶのではないでしょうか?

ステンドグラスがとてもきれいな内部。

こういう感じで、結婚式によく使われますよね。特に日本では。
日本って、宗教はこれといったものがないのに、結婚やクリスマスなどの時にはキリスト教の文化を取り入れていますよね。葬式は仏教式だし。正月には神社に行くし。
(まぁ、なんか雰囲気良いですからね。清潔な感じが結婚式に合うのでしょう…。)
本当に不思議です。

…話が脱線しましたが、こういう教会のイメージは誰もが持っていると思います。
しかし、wikipediaによると、「教会とは、共通の信仰によって形成される集団・団体や社会のことである。」と書かれています。実はキリスト教の単語ではなかったのです!しかも、建物でもない…!
ちなみに、先ほどの例に挙げた建物は、正式には「教会堂」、もしくは「会堂」といいます。

聖書では教会について、どんなことが書かれているのでしょうか?
調べてみると、色々面白いことがわかりました。

まず、聖書の中で教会という単語は…実は「新約聖書」にしか出てきていないのです。旧約には出ていないんです。
しかも、新約は新約でも多くは「使徒行伝」以降、つまりイエス様が十字架にかかって復活なさったあとから出てきたのです。
イエス様の生きている時に「教会」という単語が出た数少ない場面がこちら。

そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。

口語訳聖書 マタイによる福音書16章18節

ペテロがイエス様がキリストだと告白したあと、イエス様がおっしゃられた内容ですね。この言葉の通り、ペテロが大胆に福音を伝えた土台にキリスト教の教会が立てられました。

コリントにある神の教会、すなわち、わたしたちの主イエス・キリストの御名を至る所で呼び求めているすべての人々と共に、キリスト・イエスにあってきよめられ、聖徒として召されたかたがたへ。このキリストは、わたしたちの主であり、また彼らの主であられる。

口語訳聖書 コリント人への第一の手紙1章2節

この聖句にあるように、聖書でも教会とは「イエス様を信じる人の集まり」として書かれています。

そのころ、ヘロデ王は教会のある者たちに圧迫の手をのばし、ヨハネの兄弟ヤコブをつるぎで切り殺した。そして、それがユ ダヤ人たちの意にかなったのを見て、さらにペテロをも捕えにかかった。 それは除酵祭の時のことであった。ヘロデはペテロを捕えて獄に投じ、四人一組の兵卒四組に引き渡して、見張りをさせておいた。過越の祭のあとで、彼を民衆の前に引き出すつもりであったのである。こうして、ペテロは獄に入れられていた。教会では、彼のために熱心な祈が神にささげられた。

口語訳聖書 使徒行伝12章1-5節

イエス様が十字架に掛けられた当時、キリスト教の信仰者たちは迫害をされ続けていました。多くの人が殺され、棄教を迫られました。そんななか信仰生活を続けた人たちは集団墓地の中で礼拝を捧げるような生活をしていました。決してきらびやかな飾りも、立派な建物があったわけでもありませんでした。(そんなのあったら迫害者の格好の的ですから…。)
しかし、時が経ちキリスト教が世界に認められるようになって、芸術者や建築者が神様の栄光を褒め称え、彼らの信仰に敬意を払って、その象徴として今の教会堂、聖堂が立てられたのです。

この事を思うと、立派な建物があるかどうか、それが問題ではなく真実に神様を信じ、愛する人が集まっているところが本当の教会だと言えます。別にどこかのビルの一室だったとしても、信じる人が集まればそこが教会となるのです。
教会の境界、それは「神様を信じる人がいるかどうか」というわけでした。
…とても勉強になりました(笑)

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。
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