おはようございます、satoです。
突然ですが、今色々な界隈が盛り上がっていますね。今季の春アニメもどんどん最終回を迎え、私が見ていたアニメも最終回がほぼ全部放映されました。たぶん。
【推しの子】に至っては早速2期も決定となり、大盛り上がりです!ちなみに、今日(6/30)は有馬かなの声優さんを含めた【推しの子】キャストによる巨人戦での始球式もあり、作中で言われていた「始球式アイドル狙えるかも?」が実現しました。
今季のアニメ、久保さんとかいせれべとか山田くんとかデッドマウント・デスプレイとか…私が見ていた作品がアニメ化(久保さんは冬だったけど、春に延期されて先週最終回でした)されたり、ワールドダイスターもちょこっと見始めたり、色々見ていました。
また、デュエプレでは7月に新作アニメ「∽」が放映される五等分の花嫁とのコラボ第二弾が始まりました。
デュエプレによって知り、デッキを作るほどにハマっている作品である五等分の花嫁とのコラボ。私も情報を見ながら、とても楽しみにしております。今回も原作の内容を深めてくれるストーリーに期待してます。無論、「∽」もめっちゃ楽しみにしています。特に四葉関連のエピソード(風太郎と出会ってからの四葉視点、映画ではカットされてた)が収録されると聞いてかなり気になってます。『学級長の噂』も入れられそうではありますが…???
Web小説も面白くて、毎日更新されています。早く2巻が書籍化されないだろうか…。
で、そんな中ですが。
現在、私はこれらのメディアに触れない生活をしております。
見たい気持ちもなくもないし、デュエプレに至っては「どっかでやれないかな~」と思わないこともないのですが、触れていません。それはどうしてか?
一つには、ここ最近の自分がメディアに触れすぎて色々バランスを崩して色々やらかしていたので、メディアをコントロールできるようにあえて調節しているというのがあります。ですが、これよりもっと重要で、重大な理由があります。
それが、自分の信仰と生活における「根本的な問題」に向き合うことになったからです。
根本的な私の「認識」の問題について~【無】という感情~
私が摂理に来て、一番多くしたのは自分と向き合うことです。
これまで多くの心の悩みを抱えていた私は、摂理に来てそれと向き合い、過去に受けた苦しいこと、辛かったことを神様とイエス様に癒やしてもらい、本当に救われました。
また、このことを通して自分自身の特性と傾向を知り、自分自身について深く認識するに至りました。それによって、現在も自分を活かす道を選択して楽しくやりがいのある仕事につけております。
このことについては、間違いなく神様に感謝をしております。
しかし、一方でどうしても神様に一歩近づけない、というか「近づくのを拒絶する」自分自身がいました。
どうも神様の考えを持ってやりたいと思っても、それをちょっと拒絶してしまう自分自身がいました。もっと言うと神様の考えを行なっているであろう自分を見て「虚無感」を感じることもありました。
そんな話をメディアに触れすぎて色々やらかしていた私が指導者にした時に、その問題こそ解決すべきだと言われました。
そう、虚無感。私は常にこれを感じていました。何かが欠けている感覚。
神様の愛で確かに埋まりはするのですが、どこかズレている感覚。
だから、私はなにか欠けている人に強烈に惹かれるし、無とか零とか、そういうものが好きでした。古明地こいしも確かに「無」を持っていましたし。
そして、この虚無感がもとで「なにか言われた時、自分の感情と状態を差し置いてそれに従おうとする」ことがあります。特に感情的に抵抗がなければ、「自動的に」行えます。そう、「それが正しいことなら」自分の意向はすぐに捨ててしまえるのです。
一見すると「良い信仰者じゃないか!」と言われそうですが、これは表面的なもので「神様が好きだから」「本当にやりたい!」と思ってしているわけでなく(ないわけでもないが)、自分の思いは(極端な言い方をすると)どうでもいいと思ってしてしまうんです。「抑え込んでる」わけでなく「本当にどうでもいい」。
だから、「メディアを全部切ったら?」と言われた時に「(そのほうが正しいから)そうですね」と言ってすぐにできてしまうのです。
(別に見たくないわけでない。見たい気持ちもある。見て悪いと思っているわけでもない(見過ぎは良くないと思ってる)し、なんならデュエプレは一回ストーリーを見るためにやりたいと思ってる)
では、この「虚無感」はどこから来ているんだろう?と考えてみました。
もし自分を抑え込んでいるなら、それは五等分の花嫁でいう四葉とかが近い(実は、一部の描写が私のそれに近い時があった。それこそ『学級長の噂』の最後のあれとか)気がするのですが、それとは違う。そもそも、自分の気持ちが薄いんです。
一番近いのは連れカノの主人公である伊理戸水斗の感覚でしょうか。「生まれる前(物心つく前)から母親を亡くしているから、母親がいないことがデフォルトで、それに対してなんの感情も感じない」のが水斗の持っている感覚ですが、この感じの虚無感。そう、はじめから「ない」んです。
それでは、私の場合なにが「ない」のか?
これも指導者の話ですが、こういうところは家庭から来ている事が多いようです。親からなにか言われた、なにかされたということがそのまま今の自分に影響をしている、ということはあるそうです。
たとえば親に怒鳴られたり、叩かれたりする子は「親→周りの人を見て」怒られないように育つ、ということはあります。
あるいは、親が寝たきりになっていると「自分が助けないと!」って思って無理やりおとなになってしまう、ということもあります。
でも、私はそういう感じの傷とは違うようです。確かに親に怒鳴られるとか叩かれることはありましたが、それに対する感情は「まぁ、そうよね」って感じです。だって、うるさかったり、下手したら窓を割るくらい暴れてた(落ち着きがなかった)んだし。そこに対して恐怖はそんなにないです。
また、親から愛されていない、という感覚もそれほどないです。親は私のことを面倒見てくれたみたいで、私が覚えているだけでもご飯とかちゃんと食べさせて(バスに乗り遅れてもちゃんとご飯を食べさせてくれてから駅まで送ってくれました)、色々助けてくれました。そういう感覚はあるんです。(摂理に来てそういう感覚が育った、というのもあります)
では、この「虚無感」とはなにか?
果たして、私は親になにかされたのか?
「何もなかった」
その答えが、これです。何かをされた、ではなく「何もなかった」。
親は確かに私を無視せず、私の面倒を見てくれました。欲しいものは(お金の都合が合えば)買ってくれましたし、一緒に遊んでくれたこともありました。
ただ…これがうまく言語化されているかはわかりませんが…私がやったことに対しての関心が薄いという感じはしましたし、少なくとも「褒められる」などのプラスの働きかけは殆どありませんでした。
たとえば、私が大学に合格したときも(ご飯はお祝いとして焼肉でしたが)、合格したことについて「喜んでいた」ということは全くありませんでした。受かった事実を聞いて「受かったんだね」と認識する感じ。
ちなみに、のちに「合格してなかったら働かせてた」「元々才能はあると思っていたが、合格しないなら諦めさせたほうが良いだろうと思った」「合格したことで数学者を目指すことを応援することにした」って話を聞いて、それで自分のことを認めてくれてたというのを知りました。それはありがたいです。
こういう感じで、自分がなにかやった時にマイナスの反応もそこまでありませんでしたが、プラスの反応はさらにありませんでした。あったかもしれませんが、少なくとも私はそれを感じていませんでした。
これについては、私の傾向にも要因があるかもしれません。親が言外にプラスの感情を持っていても、自分がそれを感じ取る力が薄かった可能性はありますし、そもそも私は一つのことに集中・没頭しやすい傾向だったので親を見ていなかった可能性もあります。
ただ、私だけの問題、ということでもないようです。
父親は何も語らず、家族の中ではほとんど笑わず、ただ仕事をしている、という人でした。友達と話していたり、お酒が入る場だとめっちゃ笑ってましたが。
ちょうど五等分の花嫁の五つ子の養父マルオさんに近い感じです。あの人も四葉が良い点を取った時に見ず笑わず反応したり、子供の頃の二乃がパンケーキを食べたい、と言ったときも何も言わずに行ってしまったし。
でも、あとで二乃が自分で作れるように、ちゃんと道具と材料と作り方のレシピは用意する。
五つ子に対してなにか声をかけることはしない。けど、ちゃんと生きられるように面倒は見ている。うちの父親もそんな感じでした。
母親は母親で、炊事や洗濯などの家事以外の時間は割と自分の趣味をしていることが多かったです。小説読んだり、ナンプレやったり、漫画を読んでいたり。
改めて私の親を見てみると、なんと言いますか…仲が悪いわけではないのですが、互いが互いに独立して、自分の道を生きている感じがするのです。ただ、一緒にいて、困ったことがあったらお互いに助け合うという感じ。
そして、それが子供に対しても同じ、という感じなんです。
これを受けて私は自分は自分で生きないといけない、というか人は人で、自分は自分で生きるものなのだということをデフォルトとして認識していたみたいなんです。言い換えると私は(誰かの助けは受けるとしても)一人で、自分の人生を生きていくという感じでしょうか?だからかは分かりませんが、親に甘えるということはそこまでしていなかった、気がします。
これについては客観的な証拠もあって、私以外の弟も同じように生きていますし、一番下以外はみんな早い時期に「自分のことは自分でやる」ということをしていました。そして、唯一甘えていた一番下の弟に対して「どうしてお前は自分でやらないんだ」ってイライラしていました。私を含めてみんな。
逆に一番下は本当に遅い時期まで(小学生になっても)親にベッタリしていました。
そして、今現在私以外の弟はそれぞれ働いていて、親と一緒にいても「ただ一緒にいて、困ったことがあったら助け合う」だけの状態で過ごしています。なんというか、つながりが薄い。
こう言ってはなんですが、別に親とも弟とも仲が悪いわけではありません。微妙に合わないところはありますが、別に嫌われているわけではありません。好きなものもある程度共通していますし、割と合うところは合います。ただ、それはどちらかと言えば友達のそれに近い、とも思わなくはないです。
言うなれば自分は自分で生きていくもの、というのが私のアイデンティティの一つみたいです。そして、神様の、あるいは他人の意向に従って人生を生きるというのはこれに反する感じがして、どうしても受け入れられていないというのが神様の考えを行なっているであろう自分を見た「虚無感」に繋がっている感じがします。
実際、すべての原因がこれみたい
たとえば、私が一時期調子を崩したのは一人暮らしをして自分をコントロールできなくなったことが大きな原因ですが、ではなぜ一人暮らしをしたくなったのかと言うと一緒に住んでいた人に生活のことで色々指摘(というよりアドバイス)をくれたことが、自分にとって「介入されている」と感じてストレスになっていたからなんですよね。これも自分は自分でという自分のテリトリーに侵入されていたからなんですよね。
また、この「虚無感」と向き合った際にかなりのストレスが起きて、本当に癒やしがほしい…逃避したい…と思って、本当にデュエプレしたくなったんですよ。さすがに、「これは違う」と思ってやらなかったわけですが、ここ数年の精神的なストレスの大きな部分がこの虚無感であり、そこから逃避するために色々なことをしていたようだというのが分かりました。
無論、デュエプレや様々なオタ活自体を通しても自己肯定感は上がり、神様をより近く感じられたことが多くあり、本当に恵みの時間だったわけです。それに、それを通して色々な人と交流するようになりました。だから、一概に悪いことばかりではないです。というか、私にとっては良いことです。
ただ、だからといって、この「歪んだ認識から来る虚無感」を解決しないことには先に進むことはできません。いつまでも逃げてばかりはいられないのです。
まず分かったことは少なくとも私の家庭環境は、神様の理想の環境とは異なる、ということです。果たして一般的な家庭がどうなのかは分かりませんが、異常とまでは言わずとも「普通でない」ことは確かです。この認識ができたことが一番大きな進歩です。
この先、この認識感と虚無感はずっとついて回ると思いますが、これまで頑張ってきた「自分と向き合うこと」も最終章を迎えた、という感じがしています。間違いないのはこの問題も必ず解決できるだろう、ということです。
おまけ:『五等分の花嫁』の予見~妙によく当たる二乃グッズ~
(以下、『五等分の花嫁』のネタバレを含みます)
実は一つこの問題についての予見がありました。これは今だから気づいたことですが。
私は五等分の花嫁グッズだけはしばしば買うのです。
ある時五つ子のクリアファイルが売られているのを見つけて買おうかなと思った時に、何故か二乃のファイルを買いたいなぁ…という感動が強く来ていました。
最近の記事を読んでもらった方なら分かるかもしれませんが、五等分の花嫁において一番の推しは四葉なんですが、それよりなんか「二乃が良いな」って思ったんです。不思議なことに。で、結局二乃と四葉のファイルを買いました。(いや、四葉も買うんかい!ってツッコミはなしで(笑))アイキャッチに載せたのはそのファイルです。
また、ある時ローソンに行ったらたまたま五等分の花嫁一番くじがあって、一つ買って引いてみたらイラストボードが当たりました。あとから探してもどこにもなかったので、あの日、あの店にしかなかったのだと思います。
実は、こういうランダムなものを買うと推しの四葉が当たることが多い(たとえば、五等分の花嫁展の入場者特典は二回とも四葉でしたし、グッズを買ったときのクリアファイルも最初は四葉でした。ちなみに二回目は一花)
で、今回もそうかなぁと思って開けたら
なんと二乃でした。
さすがにこれは何かの啓示なのかな???と思ってはいたのですが、結局その時は分からずじまいでした。
当時はデュエプレで二乃デッキの祝門MRCをよく使っていたので、その名残か?なんて思ったこともありましたが…。
で、今回この問題に直面したことで一気にこのことの答えも来ました。
実は二乃の物語を見てみると養父であるマルオさんとの関係をどう解決するかという話が一番多く書かれているのです!
二乃ははじめ自分たちに対して表面上は冷たく当たっているように感じるマルオさんを見て「親だと思えない」と感じていました。それでも、学園祭で招待状を送るなど少しずつ自分から呼んでみたり。しかし、マルオさんが仕事ですぐに学校からいなくなり、「やっぱり…」と思って諦めていたところに風太郎が現れ、マルオさんの勤めている病院まで行き、かつてマルオさんが用意してくれたことで作れるようになった思い出のパンケーキを焼いてあげることでついにお互いのわだかまりが氷解するに至ったんです。二乃エピソードの最後の笑顔良いですよね。特に映画版。
考えてみると育ての父親との関係性に一番向き合っていたのが二乃でした。それと同じように、自分もまた親との関係と向き合いなさい、という神様の合図だったのです。…さすがにこれは気づかんって(笑)
ちなみに、そういう意味でいうと亡くなった母親と向き合ったのが五月と言えます。
現在のこの問題に対しても五等分の花嫁で得た知見や自己投影したキャラが大いに助けになっていることも含めて、この作品にはとても感謝しております。
この記事を書いたブロガー
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「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。
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