サイトアイコン 摂理研究所/キリスト教福音宣教会

「自分を捧げること」について

おはようございます、satoです。
今週の御言葉でマグダラのマリヤがイエス様に香油を塗ったエピソードを通して「愛の法」を学びました。
ところで、私はこのエピソードを聞きながら「このように自分を捧げ切らないといけない」という話を聞いて果たして私はそのようにできるだろうか…と考えたのです。

実際に「自分の全てを捧げる」という言葉を明け方の祈りで告げようとしましたが、どうしてもうまくできず…。
「自分が残っているし、自分を手放せない」という葛藤があったからです。

そのような話を牧師さんにしたところ「そもそも自分を捧げるということを”自分という存在をなくすこと”と思っていないか?」と言われました。
確かに、私が捧げるというイメージは、極端な話ですが「自分が嫌だと思ったことでも神様が話すなら絶対やる」というものでした。
しかし、牧師さんが「自分を捧げるというのは”何があっても絶対に神様を信じて裏切らないこと”であり、自分の意志や心をなくすこととは違う」と言われてハッとしました。

実は私自身この話をしながら「本当に自分はよくやれていないのか?また極端な思考になっているのではないか?」と違和感を感じていたのです。
もっというと、「自分の全てを捧げる」という言葉は出なかったのですが、「その代わり、最後まで神様と一緒に生きます、行きたいです」という祈りが心から出ました。このことは胸がスッキリするように、すんなりと出ました。
そして、神様の願いもそれである、ということを牧師さんを通して気づかせてくださり、胸がスッキリと解けました。

私も摂理に来て15年くらいになろうとしていますが、正直摂理を離れたいと思ったことは…なくはないです。
どちらかといえば自分があまりに罪を犯すから、摂理に居られないなぁ…という考えが出ていた時期もありました。
でも、正直神様や鄭明析先生、そして摂理の人たちが悪い、離れたい、と思ったことはありませんでした。
だから、「最後まで一緒にいきたい」という気持ちとある種の自信が積み重なっていたのです。

マリヤの香油の話も、核心はマリヤがイエス様を最後まで愛し、信じ、イエス様のことを考えて行なったです。
イエス様に本当に一緒にいたくて十字架に架けられるところまで共にしたし、イエス様が墓に葬られた後も真っ先に墓のところまで行きました。これらはイエス様がそうしなさい、と言ったことはありませんでした。完全にマリヤの自由意志です。
最初に復活したイエス様に出会ったのもマリヤでしたが、これもその想いが成せる技だったのかなと思います。

私は私の積み重ねた経緯と愛の法、本心に従って神様と一緒に生きます。

ところで、このように自分の心のわだかまりが解けてお祈りもできるようになってきて、神様と最後まで一緒に生きようと改めて決心したのが金曜なのですが、その夜ご飯を食べた後イオンに行ったところ…なんと【推しの子】とBOSSのコラボグッズを発見しました!しかもあかねのファイルもあった!!
実は私、推しのあかねのグッズが欲しいとずっと願っていたのですが、いろいろランダムに当たるグッズを買っても全くあかねのが手に入らなかったんですよね…。
B小町の3人とかアイとかアクアとかと比べると…少しではありますが、コラボの対象外になることが多いのもあり、本当に手に入らない…。ちなみに、コラボグッズで高確率で当たるのはルビーでした。なぜ?

本来コーヒーは飲めない私ですが、ちょうど同行者が3人だったので、一人ずつに好きなものを選んでもらって私が買うことにしました。私はカフェラテとあかねファイル。幸いカフェラテは割と美味しく飲めました。

手に入ったとき正直嬉しすぎてニコニコが止まりませんでした笑笑
というか今もニコニコしてます笑笑

自分が信仰的にわだかまりが解けたり、変化が起きるタイミングで推しのグッズが手に入るあたり、本当に絶妙な御働きですよ…。
コロナ中体調が微妙な時に買ったピザハットの五等分の花嫁コラボのファイルは四葉でした。なんというか神様はご存知だなぁ…と笑

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。
モバイルバージョンを終了