おはようございます、satoです。
本日話すのは私の根本的な問題の一つと、その対策についてです。
(いつものことではございますが、)今回は特に私自身の話が中心となりますが、自分の記録のため、それと同時に同じような問題に悩んでいる人がいたら参考になるかなと思い書いていきたいと思います。
今週の御言葉で「この歴史は象徴の歴史でなく、実体の歴史だ」ということを話していたのですが、この話を聞いた時に「自分は本当に実体の信仰を持っているのだろうか?実体を認識できているのだろうか?実感を持っているのだろうか?」と強く悩むようになりました。これは「空想世界」に生きていた自分の持つ悩みでした。
これと繋がっているのが今日の話の中心となるこの話です。
前々から私は「人の気持ちがわからない」ことがあります。
人から良くしてもらってもその気持ちに気づかないことがかなり多かったり、逆に人が良くしてくれた時に「自分がやっていなかった」ことに申し訳なさを感じていたことがありました。というか、現在進行形でこの問題が表面化しています。
さらに、これが人に対してだけでなく「神様に対しても」してもらったことに気づくことが弱い…という課題にもなっています。
もちろん、神様が私の気持ちを分かってくださったり、ほしいと思ったことをもらったり、そう言ったことには強く感謝していますし、私の話を聞いてくれたり、一緒に悩みを聞いてくれたことには感謝の念を持っています。
ただ、あえてはっきり言うと「外側の人に対する関心」が極端に弱い、という問題がありました。今書いたことはいずれも「私が困っていることや関心」を分かってもらえた喜びから来るものであって、それ以外の、自分が関心のないことに対しては「感じることが弱い」となっているのです。
で、このことについていろいろ話をした際に「私の話を聞いてくれた」人からもらった解答の一つが「今まで空想世界に没頭していたから、外側への関心がかなり弱くなっているのではないか?」でした。
これはおそらく正しく、実際私は小学生の時から空想世界に没入することで現実世界からの逃避(乖離)を長くしていました。それによって自分の心を守るためでした。
この延長線上で、私の信仰生活を振り返ると大半が自分の内面の問題の解決と、理解できないことを理解するために過ごしていました。全て「空想世界」、言葉を変えると「自分の内面世界」が中心となっていました。
もう少し言うと、自分の認識の中にはそれなりに「自分の中の空想世界」のシステムが混ざっていて、当然自分はそれが空想である、ということを認識した上で「その世界を楽しんでいる」部分があります。
これは空想世界なのですが、そうでない普段の生活でも自分の世界、物語…その中で生きている感じですね。
むしろ、それ以外の生き方を知らない感じであります。
私の特性や傾向、両親の傾向や家族の雰囲気を考えると先天的にも、後天的にもこの感覚と世界観で生きているとは思うのですが、それが今回人や神様との関係において妨げになっていると言ったところです。
そもそも、摂理の御言葉を聞くきっかけになったのも「人に気を遣えない自分が嫌になった」ことを友達に相談したからで、この問題点が神様に繋がったことを考えると本当に感謝しかありません。
この問題に対する答えはシンプルで「自分の空想の外側で生きる」、もう少し言語化すると「人との繋がり、神様との繋がりの中で生きる」ということになります。(私は言語化できないとうまく行えないので、このように書きました)
それが元々できなかったのは自分の内面世界を否定される、自分の心を否定されることを恐れたからだと思います。
実際、私が空想に強く没頭する…というか空想が強くなるのは「人から怒られそうな失敗をした」時や「人が自分を悪く思っている」と考えている時で、これがあったから「神様の愛の実体」への認識が曖昧なのだと思います。
これに対して「自分の想像の外の世界で生きることで、神様の働きかけ(と人を通しての愛)を感じ取る」ことができれば、それはまさしく「実体」と言えます。
元々、昔からの体験で外界に対する恐怖が根付いていた私ですが、これからはこのことに挑戦していきたいと思います。
この記事を書いたブロガー
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「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。
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