おはようございます、satoです。
つい最近、教会の人にこのブログのことがバレてしまいました(笑)
個人的には書きたいことを書いているし、ちゃんと信仰を土台とした内容なのですが、特に最近の記事はどちらかと言えば「自分が好きなものについて語る」話が多いなと思った次第です。
そこで、今日はもう少し「真面目な」話を書きたいと思います。
ちょうど今日辺りで一ヶ月経つので、ここいらで自分がやってきたことを振り返りたいと思っています。
メディアから脱却、を超えて
まず、大前提としてここ数年はネットやメディアのコントロールに苦戦していました…。
そもそも、なんの制限もなければずっと見続けられる集中力を持っていて、物心ついた時からテレビを自分で付けてはじーっと見ているような子供でした(最近親から聞いた)から、信仰や仕事の枷がなければほとんどメディアに時間を費やしてしまうんですよ。ここ数年は割とそれがひどかったのです。そのせいで、仕事における表立った失敗こそないものの、割と色々やらかしてしまうことが多かったのです。
自己申告ですが、一ヶ月前までの私のメディア(マンガ・アニメ・ゲーム・動画・ラノベetc…)に使った時間を考えると平均6時間であろうと思われます。これを多いと捉えるか、少ないと捉えるかは個々の差ですが、結構メンタル面にも強い影響を与えていまして…。(なお、この6時間、当時相談した時と実際はたぶん違ったと思います。後述)
そこで、様々な人と相談した結果、ひとまずTwitterを除く全てのメディアを見ないようにするという方針で生活をすることにしました。しかしですね…このことは以前にもやっていて…1ヶ月位は安定するのですが、リバウンドで結果として無意味になってしまう、なんならもっと酷くなるということがありました。
メディアを切る、ということだけだと完全な苦行になってしまうので、その代わりに研究をするとか何かしら代わりとなるものを用意して、そっちに没頭できるようにしておくことをしています。ところが、研究も最初は一気に進むのですが、途中で停滞してしまうとそこからスイッチが入るまでに相当時間がかかってしまい…(´・ω・`)
実は、相談した指導者の方にもこの点について心配され、当初はじっくりで良いから、少しずつ減らしていく方針を勧められたのですが…困ったことに、私の特性上「少しずつ」だと基準が曖昧になってしまうんです。
このくらいならして良いのかな?して良さそう!
→楽しい!もっとやろう!これもやろう!
→…あれ、もしかしてやりすぎた?でも、せっかくできるようになったから止めたくない!
という感じですね。良くも悪くも「妥協」したら、一気に流されてしまうタイプ…なので、多少のリスクはあるけどひとまず全部カット!一切やらない!!ということに決めました。
Q.なんでTwitterは除いてるの?
ところで、今回「Twitterを除く」メディアを切ることにしたのですが、どうしてTwitterは切らないの?という疑問が浮かんだ方もいるかと思います。実際、メディアを見る時間を平均6時間と書きましたが、これ実は「Twitterが大半を占めている」可能性が高いんですよね。これは最近iPhoneのスクリーンタイムを計測してみたところ平均2.5時間Twitterを使っていたことから分かりました。ちなみに、次に多いのはデュエプレだったと思います。これは正しいと思う。
実際、私の生活を振り返るとTwitterを使ってデュエプレとか五等分の花嫁とか、自分の興味のあるジャンルを検索してその情報を眺めることが多かったんですよ。しかも、スキマ時間に。
ただ、Twitterは他と違って発信するところにも使っているのと、デュエプレ等を経由して繋がった方も多いので、できれば運用したかったというのがあります。このことについては相談した指導者の方にも理解をしてもらっていて、ひとまずそれ以外のメディアを切ってみることにしたのです。
一人でやることを諦めた
とはいえ、このまま突き進めてもおそらくどこかで破綻するだろう…と過去の経験から考えた私。
そこで、私の教会の牧師さんに事情を説明した上で協力してもらうことにしました。
これまでは、こういうコントロールできないことに関して助けてもらうのはかなり心苦しいのと、プライバシーを気にしてしまってやりたくなかった方針でしたが、割とそんなこと言ってられないな…と思ったので。
この牧師さんは私のやることについてかなり理解を示してもらっており、過去に話したときも自分の趣味関連については共感してもらえることが多かったので(私の知っている漫画を読んでいたとかそういうことではないけど、あるある~みたいな共感・理解をしてもらえてた)、信頼度が高くて話しやすかったことも大きかったです。
牧師さんとの相談の結果、メディアを切るということよりむしろ生活自体の改善をしていったほうが良いので、こんな感じで生活をしていくことにしました。
- メディアを基本的には自発的には触れない。Twitterは除く
- 聖書を読む。一年で一読できるように毎日。
- 寝ながらスマホをしない。
(実はメンタルを崩す大きな要因がここだろうと分析していた。ダラダラ触れてしまうのがこの状態) - 1週間に一度相談し、そこで見てしまったメディアについても話す。
というわけで、この生活を実行したのが6/24です。
ひとまず、一ヶ月。
で、そろそろ一ヶ月経とうとしていますが、現在(多少のブレはあるものの)この生活はなんとか持続できています。
…もっと言うと決めたこと以上にかなーりやり込んでいます(笑)
たとえば、聖書については「1日6章」を目標としていました。
が、それだと…おそらく「形式的になって、心が緩むだろうな」と思ったので、思い切って「自分が読めるだけ読む」ことにしました。量は決めず、限界まで。
そうすると、最初に書いたように基本的に制限がなければずっと見ていられる集中力を持つ特性と噛み合って、驚異的なペースで通読をすることになりました。具体的には7/22で使徒行伝まで読み終えました。ちなみに、創世記スタートです。
おそらく7月中には一読できるでしょう…。これはさすがの自分もビックリ(笑)
ちなみに、この時の読み方ですが文字を追いつつ全体の流れを読むように読んでます。これができるのは、鄭明析先生が教えてくださった聖書の御言葉の土台があるからで、そうでもないと流れが分からなさすぎて読むのが苦痛だったと思います。
この没頭しつつ一気に読むことによって区切りの良いところまで一気に読めて、聖書の流れを掴みながら読めるので割と新しい気付きが多いんです。その気付きについては私のTwitter(趣味垢)でちょくちょく呟いております。
メディアについても、基本的には一切触れておりません。
Twitterで流れてくるものについては見ることがありますが、それも眺めるだけ、という状態がほとんどです。
五等分の花嫁∽の予告編も出たときには眺めるだけで、一緒に見る人に見せるために初めて音付きで再生したくらいです。
揺れ動きがないか、というと、そんなことはありませんが。「コラボストーリー…」という感じでつぶやくことはありますが。
その分発信を多くした結果として、Twitterでの呟きが増えています。一見良くないように見えますが、実は私の場合Twitterを情報収集のために使うことが多かったので、それに比べると以前よりフォロワーさんとの交流が段違いに増えており、本来の用途通りに使えている、と言って良いのかなと思います。
また、ブログの更新頻度も断然上がっております。これは見たら一目瞭然ですよね。
唯一怪しいのは寝ながらスマホですね…。実は油断していると意外とやりがち。
ただ、これも寝る時にスマホをいじることは前よりかな~り減りました。おかげで睡眠時間も安定してきて、なんと明け方ほぼ毎日起きてお祈りできるようになりました!
聖書も読んでいるので、以前より深めのお祈りができており、割といい感じです。しかも、このタイミングで。
ただ、ぐっすりは寝れてなくて、2時位に一回目を覚ますことがしばしばあります。これはどういうことなのか…(´・ω・`)
一番大きかったのは「相談」
で、この条件の一番大きなところ。それが牧師さんに随時相談と報告をすることです。
最初に話したのが、一度タガが外れると、一人だとどこまでもやってしまうから、タガが外れそうな時とか、外れてしまったらすぐに話すようにしますということです。
これによってメディアを一切切る、というよりは「手放す」感覚になったのが苦痛を減らせた大きな要因かなと思います。
一切切るだと「我慢する」という苦痛が大きかったのですが、自分がコントロールできる範囲に調整するという認識になって割と楽になりました。
私は割と「人に話したことはその通りにしたがる」性格なこともあって、これに助けられたことが大きいです。
たとえば、「五等分の花嫁∽を見たい」というのもこの条件に合わせて相談して、検討の結果ひとまず「映画館で見ていいよ」と言われたことで救われました。結果としてさらに条件をしっかり立てることができて、信仰に大きなプラスの要因となりました。
もし、一人で条件を決めるか、相談できる相手がいなかったなら「条件を守るために我慢して、後で後悔し、尾を引く」か「見た後その余韻で他のメディアに触れていく」ということが起きていました。
たぶん、相談なしにやってたら、∽見た後、映画の完結編を普通に一人で見てたんじゃないかな。絶対そうしてた。
また、「どうしてこの条件をやっているんだろう…」と思っていることも素直に話した結果、「幼少期の虚無感」を解決する対策として…この後に書く「もう一つの実践」に至りました。
何にせよ、ちゃんと相談したことは必ず上手くいくように神様が調整してくださっており、本当に感謝しています。デュエプレのことはちゃんと相談したいと思います。(笑)
いつも相談に乗ってくださる牧師さんには本当に感謝しています。
「自分の頑張りを認める」条件
その「もう一つの実践」というのが、こちらの記事でも書いた自分の頑張りを褒めるということです。
簡単に経緯を書くと自分が幼少期の時から親に認められたことが全くなく、そのために「自分のやっていることに意味がない」と感じていたのですが、話を聞いた牧師さんによって「自分で自分の頑張っていることを認めてあげる」実践をしてみよう!となったわけです。
とにかく小さいこと、当たり前のことでもいいから褒める。頑張っていることを認める。
たとえば、洗濯、皿洗い、∽掃除、そういうプラスのこと。
人に言われたからやってる、心からやれていない、そういうことはとにかく気にしないで。
これを実践してみることにしました。割と苦戦していますが…(´・ω・`)
今回の記事を通して改めて見てみると
- 聖書をたくさん読んでいる(もうすぐ一読)
- 明け方毎日起きてお祈りしている
- 洗濯、皿洗いも割とやっている
- 自分で勝手にメディアに触れない
- Twitterの時間も頑張ってコントロールしようとしている(具体的にはスクリーンタイムを2時間に設定してみてます)
- ブログなどの発信も結構やっている
- その上、割と仕事もきっちりやっている
- 教会の使命も全うしている
- 公募の書類作成も進めている
これはもう…かなり頑張った!と言って良いんじゃないでしょうか!?
いや、誰かが「それくらい当たり前」と言っても、私はもう頑張っている認定します!
だって、前の私ほとんどこれ出来てなかったんだもん。だいぶ努力してますよね!!
…正直言いますと、今日この記事を書くまでは「正直どうなんだ、今の私…」と思っていました。
だからこそ、今日改めて振り返りたかったというのがあります。
改めて言いましょう。今の私、頑張っている!
まずは、自分でこれを認めましょう。そして、もっと良くできるところもあると認めて、そこを頑張っていきたい…とやるとまた苦しくなるので、ちゃんと自分を認めるところから始めたいと思います。
まとめ
今回の条件は一言でいうと自分を土台から作り直すというものです。特に自分の頑張りを認めることは今までの私にはできなかったことです。
「自分をとにかく全肯定する」だと自分が間違ったことをした時にどうすれば良いのか分からなかったし、「自分で自分を褒める」だとなんか自己愛が強い感じがするから…
でも、今回「自分の頑張りを、小さいことでも認める」ならうまく出来そうな気もしています。
その過程は苦痛もあるでしょうが、今までよりは真っ当に進んでいる感じがします。そうでなかったら、神様がより正しく導いてくださるでしょう。
いついかなる時も私を見捨てず、助けてくださり、変化できるようにしてくださる神様に心からの感謝を捧げます。
この記事を書いたブロガー
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「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。
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