→序章②
分数の割り算。
それは小学6年生だったら誰でも習うような、基本的な計算である。
確かに、『分数ができない大学生』というワードが一時期流行ったこともあったが…。
しかし、ここは日本では多くない数学科もあり、教育学部も含めた文系分野も勉強できる、それなりに規模の大きい大学である。
少なくとも日本内でもそれなりに入試が難しいとされる大学、それも理系分野である工学部。そこに入った学生が…。
「分数の、割り算?」
まさか、算数で?
そんな驚きのあまり、数正はただオウム返しをするしかなかった。
その様子を見て、ほんの僅かだがディーは眉を潜めていた。
「…あぁ。どうしても、計算をミスるんだよ。
約分を忘れたりしてな」
「…一応聞くが、やり方は分かるか?」
「分子と分母をひっくり返して、掛けるんだろ?」
数正の質問に答えるディー。
「間違ってはいないが、少し足りない。
÷の方の分数の分母と分子を入れ替え、逆数にするんだ」
「お、おぅ。だけどよ…」
足りないところを指摘する数正に少し押されつつ、ディーは続ける。
「それって、どうしてなんだ?」
「ん?」
「いや、だから。
どうして÷の方を逆にするんだ?ってか、そもそもどうして逆にするんだ?」
「どうしてって…」
-そんなの、当たり前じゃないか。
そんな言葉を辛うじて飲み込んだ。
「…いいか、あれは計算のやり方なんだ。
ひとまず理由を考えるより、しっかりと練習を…」
「お前も…そう言うんだな」
「え?」
数正が説明を続けようとするのを遮って、口を出すディー。
その表情はどこか苛立っていた。
「高校の教師にも言われたぜ、そうやってな!
“まずはやり方を覚えろ、問題が解ければいいだろ”って!
それで、計算をミスる俺を見て、お前は数学ができないなって言われて…」
「ちょ、ちょっと…!」
ディーの様子を見て慌てて止めようとするアキだが、ディーは止まらない。
「だいたい、なんだよ、あの計算!
物理とか化学とかでも出てくる癖して、何をやっているのかさっぱりわかんねぇ!
いっつも何をやっているのか分からんし、それを聞いても誰も説明してくれなかった。
ただ、問題が解ければ良いって…」
「待て、俺は…」
「頭が良いやつはそうやって、ルールだと思えって言うんだよ!」
「…」
「ちょっと、ディーってば!」
「…はっ」
アキの声を聞いて、ようやく我に帰るディー。
しかし、ディーの剣幕に数正はただ言葉なく立ち尽くしてて。
「…」
三者三様、言葉もなく。
ただただ気まずい沈黙が流れていた。
「…もういい」
その様子を見て、ディーは教室から去ろうとする。
「え、どこ行くの?!?」
「俺みたいなやつに付き合って勉強するのも疲れるだろ。
悪かったな、迷惑掛けて」
「あ、待っ…!」
そう話して、ディーが入り口に向かおうとしたその時。
「…あら。何かしら、この状況」
入り口には、新たな女子学生が立っていた。
数正のポスターをじっと見ていた、あの長髪の女子学生である。
「え」
「「…」」
唐突に現れた新しい人物に、その場にいた全員、言葉が出なかった。
「数学を勉強するセミナーって、ここよね?」
と、彼女はディーに向かって問いかける。
「あ、ああ…」
「代表者はあなた?」
「ん、いや…」
「俺が、代表の岸本ですが」
ディーが何を言ったら良いのか戸惑っている間に、数正が続きを引き取った。
「そう。それで、この人たちがセミナーの参加者というわけね」
「…いや、俺はやっぱり」
周りを見回しながら話す彼女の言葉を否定しようとするディー。
「分数の割り算が分かんねぇやつは、帰るぜ」
「ちょっと!」
帰る引き留めようとするアキ。一方例の彼女は
「分数の割り算?」
そういって、ディーを見つめていた。
「ああ、そうだよ。どうせ分数の割り算がわかんねぇ俺は…」
「分数の割り算が、分からないの?」
「そ、そうだって…」
彼女はディーを見つめながら、そう繰り返す。
その目は、まるで何かを見つけ出そうとするようであった。
「…そもそも」
「?」
「そもそも、あなたは分数って何か、知っているの?」
そして、彼女はそう問いかけた。
「…え?」
長髪の女子学生が話した言葉、
「分数とは何か?」
に対して、困惑するディー。そして、その困惑はディー以外の2人、アキと数正も同様であった。
「分数の割り算が分からないと言っていたわよね?
それって、たとえば1/3で割るって何かが分からないということではないのかしら?」
「お、おう。確かにそうだ。
物理とかでも出てくるけど、どうして1/3で割るなんてできるのか、さっぱりで…」
「それなら、そもそも分数って何かしら?」
「…」
「割るって、どのような計算なの?」
「…」
「そう、私は考えるわ」
彼女の話を聞きながら、他の三人は沈黙していた。
「…言われてみれば、そうだよな」
一番腑に落ちているのは、ディーだった。
彼はまさにそのことに疑問を持っていたのだ。
「それについて、一つずつ考えていきましょう。
黒板、使っても良いかしら」
「あ、あぁ」
数正が、黒板の前から離れ、そこに少女が向かう。
「あの!」
その途中、ずっと黙っていたアキが少し大きな声で話しかけた。
「何かしら?」
「その…お名前は?」
「…あぁ」
アキの言葉を聞いて、今そのことに気づいたかのように女子学生は反応した。
「森野 真理。理学部一年、数学科志望よ」
「…真理ちゃん」
「ちゃん付けはあまり好きではないわ。できれば真理で…」
「私は、アキって言います。野本 亜季、教育学部一年生です。
で、こっちは工学部一年生のディー」
「待て、ディーは…」
「アキ、ディー、そして」
「岸本 数正。同じく理学部一年生、数学科志望だ。
名前呼びで構わない。アキもそうしている」
「わかったわ。数正ね。覚えたわ」
「…またスルーかよ」
名前のことを再びスルーされて腑に落ちないディー。
それを横目にして、真理が黒板の前に向かい、そして。
「座らないの?」
「ん?」
ディーがずっと立っているのを指摘した。
「ずっと立ったまま聞いてるつもりなの?疲れるわよ」
「…いや」
真理の言葉を聞いても、ディーは少し迷っていた。
このまま話を聞くのか、それとも帰るのか。
「実はね」
「?」
ディーの様子を見て、真理は思い出すように言葉を紡ぐ。
「私も、同じことを考えていたのよ。
どうして、分数の割り算がああいう計算なのか、をね。
だけど、小学校の先生は教えてくれなかった。だから、私は考えたのよ」
「…答えは」
真理の言葉に口を挟んだのはディー…ではなく。
「答えは、出たのか?」
数正だった。
真理は、彼の方を向いて答える。
「…ええ。私なりにはね。
だけど、せっかくだから、もっと考えてみたいわ。
だから、あなたも聞いて頂戴」
「…ああ」
その言葉を聞いて、数正はそれまで勉強していた机に向かう。
「あなたたちも。
質問はいくらでも受け付けるわ。私が答えられる範囲なら答えるわよ」
「答えられない時は?」
そう聞いたのは、アキだった。
「その時は…一緒に考えましょう」
そう言って真理は微笑んだ。
「どんなことでも、聞いて良いのか?」
最後にディーが、確認するように真理に尋ねた。
「ええ。私達にとって当たり前のことでも、あなたにとってそうでないなら。
いくらでも聞いていいわ」
「…どうしてだよ」
「どうして?」
ディーの言葉を疑問に思う真理。
「今まで、先生も勉強できるやつも、しつこく質問するやつを鬱陶しそうにしてたぜ。
どうして、お前はそうしないんだ?」
「…」
そう言われ、真理はしばし考え、
「面白いから」
そう答えた。
「面白い?」
「ええ。
その疑問の中には、私にはない考えが入っているし、もしかしたら、本質が眠っているかもしれないわ。
その疑問を考えることで、私達はより本質を知ることができる…かもしれない。そのことが、私は面白いと思うのよ」
「…」
その言葉に、ディーはどこか今までと違う何かを感じていた。
それは、アキも、数正も同様であった。
しばらくして、ディーは黙ったまま机に座った。
それを見て、真理は
「では、始めましょうか」
宣言する。『探索』の始まりを。
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「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。
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