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希釈された「私」が摂理に来て生き返った話。

希釈された「私」が摂理に来て生き返った話。

おはようございます、satoです。

今日も1日生きられることが感謝です。
自分の中ですべきことができて、うまくできないときもあるけど喜べて、悲しめて、楽しめて、怒…る必要はありませんが(´・ω・`)
そのように、感情のある生を生きられることに感謝です。

最近の若者は「自立性がない」とか「何をしたいのかが分からない」とか、「何もする気力がない」とか、そのようなことがよく言われています。
最近の若者、というと語弊がある気がします(私も最近の若者、といえば若者ですが、今の若者とはやはり感覚が違うはず)が、「したいことがない」という人は増えているように感じます。
「自分」という存在が希釈され、

「周りの声に従っていればいい」

「何もしなければなんにも問題にならない」

と考えて、何もしたいと思えない、そんな人が。

私も、「自分」という存在がとても薄い人でした。
学校では「言われたとおりにする」ことが得意だったので、真面目な(多少変わり者の)優等生(兼いじられキャラ)という感じでした。普通ではありませんでしたが。
しかし、大学に行ってから大きくつまずきました。大学では「自分に指示をする」人はあまりいません。自分の「人生」は自分が決める、そのような世界でした。
「大人の言うことを聞いて生きていた」私にとっては、大きな壁でした。

「数学研究をしたい」という思いはあり、数学に対する興味はあるけど、いつもしているのは漫画やゲームを何も考えずに鑑賞するだけの「楽な」生活でした。
絵描きなら絵を描き、小説家なら小説を書き、数学者なら数学のことを考える、そんな中、私の日常は「人から与えられたものをただ消費する」だけの生活でした。
心のなかに作品の構想はできたり、深い考察はしていましたが、それ以外のことはただ「人から与えられたもの」を消費する生活でした。

幸い、色々なことを考えることを通して「救い」に対する問題意識に興味を持ったことと、数少ない「自分がやりたいと思った」ジャグリングを通して友人に出会い、摂理に来るようになりました。
ほんの僅かにした「自分がしたいと思った行動」を見て、神様が私を呼んでくださいました。
摂理の御言葉はとても鋭く、特に「人から与えられたものをただ消費する」ことに慣れていた私には辛いと思ったことがありました。というか、今も正直つらい時があります。

それでも、私が御言葉を聞いて「自分がしたいと思った行動」をしたことによって、少しずつ「希釈されていた自分」が復活するようになりました。
御言葉を聞いて、反発しながら神様に本音をぶつけたこと。
御言葉を聞いて、「これはまずい」と思って真剣に悔い改めたこと。
御言葉を聞いて、心から愛を告白したこと。
御言葉を聞いて、最初は嫌だったけど決心して行ったこと。
その一つ一つが、自分という存在を構成していきました。

そうして、私は私の個性を取り戻し、夢を取り戻し、生きる喜びを取り戻しました。
未だに「人から与えられたものをただ消費する」肉体が慣れ切った習慣を脱することは難しいですが、それでも「完全に自分が希釈されていた」昔の私に比べればだいぶまともになったといえます。バイトもできるようになりましたし、少しずつ研究活動もできるようになりました。

今でも「何をして良いのか」気にして動けないこともありますし、心は熱いけれど行えないことが多くあります。
だけど、長い目で見て「自分は前より良くなった」と感じられることがほんとうに感謝です。

この世に存在するメディアの多くは「人から与えられたもの」です。
それらの全てが害悪であり、問題である、とは思いません。
しかし、それらを何も考えずにただ受け入れ、自ら何もしなければ「自分という存在」が希釈されてしまう、と私は思います。
メディアが多いこのご時世、一度そのような海から抜け出して、「自分で考え動く」ということをしてみるのもいいと思います。

今の日本は、そのような人材を探していますから。

付け加えると、摂理の御言葉を聞いたらもっと良くなります。
創造主神様の目的どおりに「自分の人格」を磨いてくれますから、ね。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。

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