摂理の自然聖殿と京都大学の校風に流れる聖書の香り。

数ある日本の大学の中でも、最も個性的で自由なところ。
こう聞かれたとき、私なら「京都大学」と答える。
ここの自由さは、たとえば卒業式の風景を見ると分かる。そこにいるのは、数々のコスプレ…。この大学以外で「実際に変形するトランスフォーマー」のいる卒業式があるだろうか?(気になる人は「京都大学 卒業式」で検索して頂ければと思う。)
ちなみに、北海道では札幌南高校の卒業式がこれに近い。男子はコスプレ、女子はドレスを着る人がいる、という話を聞いたことがある。
この校風、私はいいと思う。
こうやって、自由にする事によってたくさんのことを経験し、自らの個性を磨けるから。
失敗する事も多いかもしれない。それでもその経験を通して「人とは違う何か」を持った人材、揺れない人材が生まれる。
この京大の基本理念「自由の学風」はwikipediaによると前身である第三高等学校の校長・折田彦市が作り上げたものである。この折田先生の銅像に落書きをし、これが原因で銅像が撤去されたあとには折田先生像を模したオブジェを作る学生たち。正直それはどうなのか…と思う人も多いだろうが、当の京大側は…
「機構としましては、吉田南構内の風物詩の一つとして一定の期間状況を見守っています」
(京都大学 高等教育研究開発機構から引用)
この対応である。
普通なら止めそうなところを見守る、この懐の大きさが学生の自治を促している。
この話を聞いて、私は韓国にいる摂理のある牧師の言葉を思い出した。
私が責任を取るから、自由にやってみなさい。
その方とは月明洞で出会った。
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摂理人なら誰もが行きたい『自然聖殿』、月明洞。
そこには神様が造られた多くの自然と、神様の構想にしたがって鄭明析先生が作られた岩の造形がある。
その美しさもさることながら、私が好きなのはその「自由さ」である。
そこでは賛美をする、祈る、散策する、食事をする、絵を鑑賞する…何をしてもいい。
何をしても神様が感じられるくらい、神様との距離が近いのである。
そこにもまた「全てを受け入れる」懐の広さを感じる。
また、そこにいる人たちも神様の体となって色々よくしてくださった。私が来た時も色々助けていただいた。
…これについてはまた別の機会に書く事にする。
その姿はまるで鄭明析先生のようである。
そして、それに応えるかのように月明洞には賛美と祈りの声が絶えず、人がたくさん散策をしている。
本当に、不思議な時間が流れる…。
その風景は、ある意味で京大の風景に通ずるものがある。
調べてわかったのだが、実は折田先生もクリスチャンであったとのことだった。
(こちらにそのように書いてあった。)
やはり、自由は真理のもとに成される…のだろうか。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。