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私は本当に人を愛せているのだろうか?と考える。

こんばんは、satoです。

7/26に書いた相模原市の事件に関する記事ですが、7/28に内容を変更しました。
それはどうしてか、と言いますと…書いた後ずっと「モヤモヤ」していたからです。
自分でも書いていて理由が分からなかったのですが、お祈りをしてみたら色々足りないところが見えたので書き直しました。
具体的には「もっと事件によって傷を受けた人たちに寄り添おう」ということと、「文章が障碍者か否かで分けているように感じた」ことです。それで、このためにもっと祈って書いてみました。
その上で、最初に書いてあった「事件を通しての自己の振り返り」は削除しました。流れに合わなかったので。
この記事は、その話をもう少し突き詰めたものです。

相模原市の事件を通して、私は
「果たして、私は本当に重篤な障害を持つ人を自分と同じように見て、接することができるだろうか?」
と考えました。
極端な話ですが、もしそうできないなら…私も上の事件の犯行者と同じことをする可能性があります。

もちろん平素の時にはこういうことはしないです。
それは私たちには「理性」があるから、心の中に悪なる感情を持っていたとしても「それはしてはいけないことだ」と思って抑圧されるからです。
しかし、「極限状態」に追い込まれたとき、理性が働かなくなったとき、あるいは理性が通用しないとき…人は「平素心の中にあること」が出てきます。
人に対して怒りを持っている人は「何をしても許される」という時にはその怒りをぶつけるし、悪い感情を持っている人はそのようにするでしょう。

私は、本当に人を愛せているのでしょうか?
自分に近い人とは仲良くできるけど…本当に「その人を神様が見ているのと同じように愛せている」のか、と言われるとまだ足りないと感じています。

少なくとも、鄭明析先生は障害の有無に関係なく、分け隔てなく人に接されます。
かつて、修道生活の際に乞食に対して、その人を自分だと思って「その人の目線まで自分が下がって、『明日があるから、頑張って』と励ましながら、自分のお金をすべて渡した」鄭明析先生。
目や耳が不自由な人、病気の人のために祈られる鄭明析先生。

 どうして鄭明析先生はそのようにできるのでしょうか?
それは、「自分を一人の恋人のように愛する神様の愛」を受けられ、愛の関係を知ったからです。
「私たち一人一人をそのように愛される愛」を分かって、自分の愛を分けてあげたくてそうしているのです。

まずは、私が「神様が愛される愛」を感じて、受け取るところからだなと思います。
その愛をしっかり受け止め、愛の関係が築けたとき…本当の意味で人も、自分も愛せるのだ、と鄭明析先生から学びました。
だから、焦らずに自分を愛で受け止め、作っていきたいです。

 

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代まであと一歩。数学者を志す大学院生で、教育系の仕事もしています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。

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