祈りの末に受けた「考えの祝福」


こんばんは、satoです。

療養生活が続きますが、私は元気です。
正確には、元気になりつつあります。生活の方も少しずつ平常運転に戻し始めています。

今日、ふとこんな考えが頭に浮かびました。
「神様の御言葉に聞き従うことほどいいことはない。神様の御言葉に従順することは楽しい」
って。この考えが浮かんだ時、私は衝撃を受けました。
というのも、私は今までこの考えとは対極的な考えを持ち続けていたからです。

よく人々は「何も考えずに上の人の言葉に聞き従う」ことに対してネガティブな話をしています。
日本人は特に「常識」やら「上司」やらに聞き従うことが善であり、美とされている文化だったりするのですが、それに対して抵抗感を持っている人も少なくありません。
「自分の人生は自分の心のままに生きるのが一番」
「自分の人生は自分で決める」
そういう言葉が多くあります。中には、「上の人の言葉にただ聞き従う」ことに対して奴隷のようだ、とか機械のようだ、という表現をしている人もいました。

私も、どちらかといえば「自分の人生は自分が決めたい」という人でした。
人の目を気にする自分が嫌で、人に縛られたくない、という考えがとっても強かったのです。
だから、自分の考えを捨てて神様にただ聞き従いなさい、と言われるのがとても嫌でした。
「やっと自分の思い通りに生きられるところまで来たのに、また人に縛られるのは嫌だ!」という考えでした。(神様は人でないっていうツッコミはさておき)

実際のところ自分で決めることが得意ではありません。そんな私だったら、もしかしたら摂理から離れていたかもしれませんね…。
そんな私が、どうしてここまで頑なに御言葉に聞き従うことを苦手にしていたのでしょうか?

長い間、110日間お祈りして、特に最後の日は早い時間に起きて特別にお祈りする中でわかったことが一つありました。
それは、私は「疎外感を持つ」ような考えがとても強かったということでした。
何か自分の思ったことと違うと、すぐに「あの人が僕をいじめた」と考える…というと極端ですが、割とこれに近い考えを持っていました。
中学の時も、高校の時も、これがとても強かったです。確かに悪口もあったし、嫌なこともあったのですが、それは私が疎外感を抱く原因の半分に過ぎず、本質的には「自分が正しい、自分に合わせてほしい」という考えが強かったことが原因だった、と気づきました。
それで、この考えについて悔い改めました。

「自分の思い通りに」というのは、人が自分に合わせてくれることを強く望む私のエゴから出てきた考えでした。
それがわかって、それを悔い改めるようになってからは幾分か摂理にいるのが楽になりました。

その結果が冒頭の考えに現れたのだと思います。
110日の祈りを経ての「考えの祝福」でした。

私は根本者だから根本に働きかける。
すなわち、あなたたちの考えに働きかけるということだ。

-つらく大変でもやろうとする心

-再び立ち上がろうとする心

-喜びでこの歴史の道に従う心

-不満不平を言わず、感謝する考え

-自分を犠牲にし、命を救う精神

-主を愛する心

-命の道、引き上げの道から背を向けない心

-最後までする精神

-主の御言葉を絶対に信じる精神

-諦めない精神

-挑戦して、完成する精神など

あなたたちを命に向かうようにする
すべての心と精神と考えが
私があなたたちにあげた考えの祝福だ。-摂理の御言葉「神様がくださる考えの祝福」より

本当に感謝します。いま肉体的には辛いですけど(笑)
でも、楽しい人生を私にくださったことが、本当に嬉しいのです。

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霊肉ともに生粋の道産子・摂理男子。数学者を志す大学院生です(・∀・)もう30代間近…。 軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向。普段見える世界から色々なことを深く考え、悟りを得ることが一番の楽しみ。祈りと賛美大好き(*´∀`*)グルメ巡りと御言葉を基にした小説作品を作ることは私の密かな夢。