私が人について言及する時に気をつけていること

人を観る時は、「神様がどう働いているのか」に着目すべし。

こんばんは、satoです。

突然ですが、実は私、人について何か言及することが、とても苦手です。
注意、指摘をするときも常に「相手がどう感じるのか」…といいますか「相手にどう思われるのか」「相手を不快にさせないか」に細心の注意を払っています。正直、神経が参るくらいです(;´∀`)

そんな私なので、このブログで人について言及する時は必ずと言っていいほど「文面に問題がないか確認」するようにしています。昨日書いた記事でも紹介した方に文面を確認してもらいました。

そんな私が昨日の記事を書きながら気づいたあることについて、今日は書きたいと思います。

人を書くより、『人を通して働く神様』を書く

昨日の記事で一番苦労したのが、スパに連れて行ってくださった人について話すところでした。
最初はその人について色々紹介をしようと思ったのですが、どうも心が苦しい。それで、色々書いているうちに、その人の紹介というより「その人を通して感じた鄭明析先生の精神」という感じで文章がまとまりました。
この時、私の心はとてもスッキリしたのです。

この原因について分析しました。

1.その人についての自分の主観が入らない

最初に話したとおり、私は人について主張することが苦手です。それは、一つにはあくまで私が感じたことは自分の主観に過ぎず、本当でないかもしれないということがあるからです。もし、自分がその人のことを間違って認識しているとか、歪めてしまうとしたら、その人が見たときにどう思うでしょうか。

しかし、その人を通して感じた鄭明析先生の精神、なら話していることは私が感じた『鄭明析先生』の話です。そこには、その人に対する自分の印象というものはあまり入りません。それで、私の中にある「不安」が軽減されたのです。

2.人本的でない、神様の御言葉を紹介できる

もう一つ、このブログで本来したいのは神様の働きや、鄭明析先生の精神を通して働く神様の愛を紹介するということです。たとえば、昨日の記事では「高級スパに連れて行ってくださる神様」や「自分のものを神様のものだと思って皆に分け与える鄭明析先生の精神」を実体験を通して紹介しました。
神様にとっても、『自分がしたことを紹介してくれる』ことが一番嬉しいことなのです。

ところが、それが「その人がしてくれた」となると私の良心が痛むのです。それは神様の働きを「その人がしてくれたこと」としてしまうことなので。

おそらく、霊的にはこちらの方が強いのかな、と思います。

そんなわけで、私がブログを書くときには、特に人について話をする時は「人を通して働かれる神様」を紹介していこうと思うし、普段人を見る時も「そこに働く神様」を見るよう心がけたいな、と思いました。

…そんなわけで、昨日の記事を書いた後、ある記事についてどうもすっきりしなかったので書きなおしてみました。もし気になる方は探してみてください(笑)

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。