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摂理に来て、ブログを書いてて良かった、と本当に思う。

摂理に来て、ブログを書いてて良かった、と本当に思う。

こんばんは、satoです。

今日、色々お祈りして、ふと感じたことがありました。
それは 私、摂理に来て本当に良かったなぁ ということです。

私は今まで多くの問題を抱えていました。 でも、一番の根本の問題は 信頼できる言葉、私を本当に想ってくれている言葉 が見つからなかったことです。
私はネットで多くの言葉を見てきました。その多くは、人に対する批判の言葉。
それを見て、私は あぁ、私もこういう風に思われるのか… と怖く思っていました。
ちょっとでも足りないところがあれば、直ちに否定される。
そんな世の中をとても怖く思っていました。

摂理に来てからも、そういう気持ちが拭えませんでした。 私が摂理にずっといたのも、摂理が楽しかった、幸せだった、というよりは 従わないと怖いから という思いが強かったです。正直。
でも、祈りながら、御言葉を聞きながら、多くの人を通して自分を想ってくれる言葉を聞くようになりました。摂理の御言葉を聞きながら、本当に私を愛し、想い、心配してくれる言葉を沢山聞いていました。

でも、私はこういう言葉を聞いたことがないから、それがどれほどの真実なものなのかわかりませんでした。
それよりは、先に見た「批判的な言葉」の方が正しいのかな、とすら思っていました。信頼した瞬間、否定されて裏切られるのが怖くて、愛の言葉を受け入れきれませんでした。

ブログを書くことにして、多くの人に出会うようになりました。
皆私をよく想ってくれました。また、皆色々な問題を神様の愛で解いていく姿を見てきました。
そして、自分がブログを更新しながら、鄭明析先生がどのような思いで御言葉を書かれているのかに少しずつ気づくようになりました。

私のために、毎日のように祈られる鄭明析先生。

そして、私のために全てをしてくださる神様、聖霊様、御子。

その言葉を聞きながら、そのしてくださったことを見ながら、私の心に

あの批判している人たちは私の何を知っているのだろう?

私とは何の関係もなく、ただ遠目に見ながら言っているだけだ…。

そんな人の言葉と、 私のために全てをしてくださっている聖三位の言葉、 私のために祈り、御言葉をくださる鄭明析先生の言葉、 どっちを信じるべきだろうか。

…どちらが、私の近くにいる人なのだろうか?

すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った、「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」。 イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。 ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。 この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。 彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。-ルカによる福音書10章29-37節

…当然、「私のためにしてくださった」方じゃないか。

批判する人の中には正しいこともあり、私が直さなければならないこともあると思います。
でも、私を愛してくださる神様もそれを分かって、私を想ってそのことも教えてくださるでしょう。
世の中は指摘すらせずに捨てても、神様はそうなさいません。そして、神様の御言葉を伝える鄭明析先生もそうなさいません。

今、私は幸せです。 私が信じるべきただひとつの言葉に出会えたから。
その人の言葉を聞けば、全てが良くなるから。
私を真実に想ってくれる人に出会えたから。
そして、私を真実に想ってくれる人たちに出会えたから。
その人達と共に、その人とともに生きられるから。

だから、私は幸せです。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。

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