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もっと自由に神様を愛していいんじゃないか?

もっと自由に神様を愛していいんじゃないか?

おはようございます、satoです。

今日はお客様が私の教会に来られて色々な御言葉を伝えてくださいました。
ここ北海道は遠くて、普段はなかなか交流ができないのですが…今年はたくさんの方が来られて必要な御言葉を下さって、私達を導いてくださっているのを感じました。

今日御言葉を聞いた中で私が長年疑問に思っていたところの答えが得られたのですが、それは御言葉を実践するとはどういうことなのだろうか?ということです。
御言葉を実践する、と聞いて私は祈ったり、主の名前を呼んだり、伝道したり、というところを考えていました。
また、その他にも御言葉を聞いてみてその通りにやってみることもあるのですが、いつも「ただこれをすることが実践なのだろうか…」と違和感を感じていました。

そんな感じだったもので、平素の生活で自分がどのように御言葉を実践すれば良いのか分からず(明け方起きて祈るとか、そういうところは分かりやすいですが、それ以外の平素の生活の時間が曖昧だったという感じです)、ずっとモヤモヤした信仰生活を過ごしていました。
それで八方塞がりに陥っていた…というには自分の責任分担を果たしていなかったのですが(´・ω:;.:…それでも天は私に答えをくださいました。

それが神様の思想、哲学を学んでそれを実現するということでした。
たとえば、現在私は教育分野で仕事をしていますが、鄭明析先生の御言葉で

「子供たちを一人の人間として接しなさい」

というものがありました。確かに鄭明析先生は子供たちの言葉に対しても真剣に耳を傾け、誠実に対応しています。
これに対して、結構教育現場に行くと「彼らはまだ子供だから」という言葉をよく聞きますし、そもそも教育のシステムとしても子供たちは何も知らないから大人たちが教育することで「人間」として作るのだという思想が背景にある感じがします。
何も知らない、という子供たちですが、実際のところ色々なことを知っています。確かに判断力がまだまだ未熟なところはありますが、彼らには彼らなりの考えがあって、自我があって、自尊心があります。
そういうところに配慮せずに、「子供だから」と甘く見て接することをしないように、私は心掛けています。

このような感じで、自分が今行っていることにも必ず何かしらの「天の思想」があるはずで、そこを見出して実践する時、真の実践が出来るのかな…と希望を見出しました。

それに関連して、私は「神様を愛するならこれもあれも切らなければならない、やめなければならない」という考えで窮屈になっていたような気もします。
日本人は特に真面目なので「これをしてはいけない」と言われたら真面目にやらなくなります。コーヒーとか炭酸飲料とかは「健康のために控えた方がいい」という話はありますが、「飲んではいけない」と考えて飲みませんから…。ちなみに、私はどちらも飲めません^^;味や刺激が苦手なので。
でも、これも実際のところ正しくなくて「まずは神様を愛しなさい」という話です。自分の好きなことも(溺れない程度に)しながらでもいいから、まずは神様を愛しなさい、というのが本当のところなのではないかな…と思います。

昨日も言いましたが、私はメディアから来る刺激はとても苦手ですがマンガは好きです。
これも半ば「触れてはいけない」と考えて我慢していた部分がありました。
しかし、周りを見るとマンガ好きな摂理人は今でもたくさんいるように感じます。(読んでいるかは別として)
そう考えると、無理に好きでなくしよう、人目を気にして我慢しようと考えるのはあまり得策でない気もします。だって、我慢していて「神様を愛せない」なんて考えるのは本末転倒ですから…。

偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。それもしなければならないが、これも見のがしてはならない。-マタイによる福音書23章23節

今、この御言葉に該当するような「偽善者」になるのではなく、「愛」を失わずに行う本当の新婦としての信仰生活を出来るように頑張ります。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。

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