おはようございます、satoです。
本日は「客観」を重んじた思考と「主観」を重んじた思考に違いはあるのか?という話について気になったことがあったので、これについて書きたいと思います。
これはあくまで私の妄想、感覚に過ぎないので、そういうものと思って読んでください。
以前、こちらの記事で岡潔の研究についてこのように書きました。
たとえば、日本の数学者・岡潔は「多変数複素関数論」の構築のために必要となる問題を解く中で「不定域イデアル」というものを構築しました。これをフランスのアンリ・カルタンが「層」という言葉でうまく説明しました。これによって、岡潔の結果はより簡明な表現で理解されるようになりました。この「層」という理論は「局所的な情報」と「二つの局所的な情報のつながり」からなるもので、これを用いて様々な分野が発展していきました。
実はこの話について、岡潔本人による興味深い主張が見られました。それが、「不定域イデアル」は「層」とは異なるものであるというものです。
これは実際に岡潔本人が以下のように話しているという記録があります。
私1948年にⅦ-Sur quelques notions arithmetiquesを書いて仏蘭西へ発表することを頼んだのですが、1950年に数学の雑誌、Bulletin de la Societe mathematiques de France(pages 1−27)に発表せられたものを見ますと、私の原論文と客観的内容は全く同一ですが、どうした訳か、主観的内容の方はもとの面影が残らない程、要所要所を書き換えてしまってあるのです。
岡潔「数学に於ける主観的内容と客観的形式とについて(草案)」より
途中に出てくる「Ⅶ-Sur quelques notions arithmetiques」が岡潔の書いた論文で、不定域イデアルについて書かれたものです。一方、実際に発表された論文はアンリ・カルタンによって「層」の視点で見直され、以降「層」という概念が広く使われるきっかけとなった論文として注目されるようになりました。
しかし、岡潔本人は「客観的内容」は同一であるものの、「主観的内容」は全く異なると主張している訳です。ところで、この客観的内容・主観的内容というのはどういうものかと言いますと…
・・・自然科学者が自然を研究すると同じように、数学者は数学的自然を研究するのです。ではその数学的自然は何処にあるのかと云えば、勿論主観的存在です。研究対象が既にそうですから、他は一切そうであって、従って世の人々が数学の論文と呼んでいるものは、その主観的存在の文章の空間への客観的投影に他ならないのです。
岡潔「数学に於ける主観的内容と客観的形式とについて(草案)」より
岡潔によると、数学者は「数学的自然」という主観的存在を研究しており、論文はそれを客観的に投影したものであるようです。
これは私なりの解釈になりますが、「数学的自然」というのは論文を書いている人が持っている思想、あるいは数学の世界観…「その人が何を目的として、どのような構想で研究しているのか」というもので言語化しにくいもの、客観的内容は実際の言葉や数式、論理によって構成されたものと考えていいと思います。
これに当てはめると、「層」と「不定域イデアル」というのは「客観的内容(論理的帰着とか)」は同じでも、「思想」が違うのだ、と岡潔は話しています。
ちなみに、この「主観的内容」、あるいは「数学的自然」というのは数学を作る人の論文を読むととても強く感じられるもので、例えばグロタンディークやゲルファント、オイラー、ガウス…の論文は思想を感じます。日本だと佐藤幹夫の講義録に色々書かれています。
こういうのは論文そのものだけでなく講義を聞くと感じられるところもあり、私は研究の関係でゲルファントの講義録を読んでいたのですが、そこにはゲルファントがどのように超幾何関数を考えていたのか、そのビジョンがありありと書かれていました。
どちらかといえば私は「その人がどのように数学を見て、考えてきたのか」という主観的内容の方に興味を持つ傾向にあり、それを理解しようとします。しかし、数学の論文は一番「主観」が入らないように論理と数式で書かれています。だから、理解するのに時間がかかります。
ところで、この「主観が入らないようにする」書き方、確かに数学の証明は論理と数式によって破綻がないようにする必要があるので必要ではあるのですが、それにしても「主観が入らないようにする」ところが徹底されて過ぎている…とも感じています。イントロダクションには色々やろうとしていることは書いていますが、それ以外にも「私はこうしたい!!」という情報を書いてもいいような…。
数学の論文(あるいは教科書も)はまず最初に「定義」や「公理」を書き、その後その定義から導かれる命題を証明し、目的となる定理を示す…という書き方をしています。これはおそらくブルバキが最初に書いたものだと思われるのですが、これに関して興味深いものを見つけました。
西洋は「外側にある(すなわち、誰も見ることができる)真理に迫っていく」という真理探究方式を採る一方、東洋では「自分の中にある仏性、神的性に迫っていく」という真理探究の方式を採ります。
西洋思想では、どちらかと言えば「外側」に関心の中心が置かれ、「誰でも理解できること」「普遍性」を重視し、モジュール化に適しています。反対に、東洋思想では「自分の心の中」に関心が向けられます。自己の内なる仏や神に気づくこと、自己の仏性、神的に目覚めることを重視します。それだけ精神性に豊んでいるということです。
田口 佳史『なぜ今、世界のビジネスリーダーは東洋思想を学ぶのか』より抜粋
西洋では「外側にある真理」「普遍性」を重視し、東洋では「自分の心の中」を重視していると書かれています。
別の言い方をすると西洋では「外側に真理があり、全ての人が理解できる」と考え、東洋では「自分の内側に真理があり、一人一人が到達する」と考えているのです。
この違いはどこから来るのか…と考えると、西洋の思想にはキリスト教…「神様がただお一方存在する」という考えが根本にあるのではないか?と思ったのです。
実はこの話、数学だけでなく英語でもちらほら見られまして、たとえば「excite」という動詞は日本語にすると「興奮させる」と訳されるのです。興奮するでなく。
これはどうしてか、というと英語圏では「神様が自分の心を奮わせる」という考えがあるからです。つまり「自分の外にいる神様が興奮させる」のが「excite」なのです。よって過去分詞「excited」なら「興奮させられる」=「興奮する」なのです。
他の「させる」系の動詞も同じような考え方で使われています。
この話を踏まえると、西洋の数学が「より客観的な事実を重視する」書き方であるのは結構しっくりきます。
より普遍的、「誰にとっても間違いない」ものを重視するのだから、主観を排してより広い場合に適用できる、誰が見ても間違いないように厳密に書くようになりますよね。
これに対して東洋の思想は絶対的な存在がいる、というよりは「各個人の悟り」によって形成されている、ような気がします。仏教は釈迦、儒教は孔子の悟りですね。そういう「個々の心を深めていく中での気づき」というのによって形成された形を表現する、というのは岡潔の数学観とも一致しています。
そう考えると、アンリ・カルタンが岡潔の論文を「層の観点」で書き直したのは「より広い場合に適用できる方が大事だった」という考えから来ているのかもしれませんね。最も、岡潔にとってそれは「自分の数学観を無視した」もので、受け入れ難いものでありますが。
ところで、摂理の御言葉はどうなっているのかというと、これがまた面白いのですが…。
キリスト教の唯一神信仰、ただお一方の絶対者神様を信じる、というところは同じですが、より「各個人の心を重視している」内的な要素が強い感じがします。
というのも、御言葉の中に「あなたと神様との経緯を忘れてはいけない」「過ぎた日に行った経緯を忘れるな」という「神様と自分だけの」内容や「個性の王」「愛の法」といった「普遍性というより各個人に適用される」内容が多く入っています。ある意味で「東洋の思想」の傾向が強く、しかし「絶対者神様を信じる」というところは同じなんです。
この視点、もう少し深く掘り下げると面白そうなのでまたどこかで書いてみたいと思います。
この記事を書いたブロガー
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「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。
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