子供の発想は無限大。自分を縛る「古い習慣」の話。

おはようございます、satoです。

最近バイトでも子供と接することが増えました。
子供を見ていて思うのは、子供の発想は無限大だなってことです。
たとえば、塾の休み時間、ある子は椅子を器用使って遊んでいました。ちょっと危ないなと思って様子を見つつ、楽しそうなその姿を見ながらホントに子供は自由だな…と感じます。

摂理宗教の女性ブログの中でブログを更新しているよつばちゃん。
この子も様々な視点から記事を書いています。
小学生の時はお母さんのシロさんに手書きで書いた記事を入力してもらっていたようですが、授業でローマ字を習ってから自分でもパソコンで更新できるようになりました。
それから、色々な記事を書いています。子供の視点というのは本当に純粋で、大人とは全く違った見え方をするんだなって、記事を読みながらいつも思います。
中には大人顔負けの記事もありますね…^^

よつばちゃんは漫画や物語も書いています。小学生ながらとても完成度が高く、なかなか面白いものが多かったです。
同じように物語を書いている私も色々なことに気付かされました。
その中で大きかったのが自分が「こうしなければならない」と考えているものが多かったということです。
自分の中でこだわっていたのが、設定や流れ、そのメッセージ性でした。特に必ず結論を書かなければならないと考えていました。
もちろん読む人に感動を与えられるような文章を書くことは目指していますが、そこにこだわりすぎて人の文章を読むときにも小さいことに引っかかってしまうことがありました。

子供は何も知りません。それが問題となることもありますが、時には過去の経験と世の常識に縛られた大人にはできないことをやってみせます。
よつばちゃんの作品を読みながら、本当に自由に書いているなというのを感じます。それに比べて、私は物語を書く時に「物語以外のこと」にどれほど縛られていたのだろうかと考えさせられました。

これと同じように、自分が生きていく中で積もっている古い習慣、体質がまだまだたくさんあります。
子供の目から見たら不自然なことだとしても、自分にとってはあまりに慣れすぎて自然なように感じてしまう、そんな習慣。
しかし、それが全く正しいとは限りません。むしろ、自分の可能性を縛っていることもあるのかもしれません。

原始人たちは服を着ることを嫌う。だから服を作らない。服を着ないで活動することが習慣になって、服を着ないで生きていく。

2017年4月7日鄭明析先生の明け方の箴言より

原始人にとっては服を着ないことが自由です。しかし、発達した私たちにとっては「服を着る」ことが自由であり、また服を着ない彼らを見て「原始的だ」と思うわけです。
これと同じように、自分が「これをしてはならない」ということを不自由なように感じても、実際は「しない」ことのほうが自由なことがあると思うのです。
言い換えると、自分が「縛られている」ものがあるのです。それを教えてくれるのが神様の御言葉です。

子供は何も知りません。だから、御言葉も素直に聞いて受け入れることができます。
だからこそ、もっと自由な世界で生きていけるのだな…と感じました。
私ももっと自分の考えを改め、もっと自由な世界で生きていけるように頑張ります(^^)

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。