摂理に来て13年経った私の変わったこと・変わらなかったこと

おはようございます、satoです。
本日は6/1ですが、前日5/31は私が摂理で初めて礼拝を守った日になります。
摂理では初めて礼拝に出た日を「霊の誕生日」とし記念する…というよりは神様に出会えたこと、自分が救われたことに感謝する日として過ごすことが多いです。
私もこんなTwitterをしながら、摂理に初めて来た日を振り返っていました。

このツイートにもあるように、2009年に初めて礼拝に出てから早13年が経ちました。
13年というのは、生まれてから中学生になるまでだと考えるととても長いですが、実際あっという間でした。
その中で大きく変わったこともありますが、そうでないものもあります。

というわけで、今日はそのことを振り返りながら神様に感謝をしていこうと思います。

摂理に来て変わったこと

お酒を飲まなくなった

ひとまず、ジャブとしてはこちら。
摂理に来てから、お酒を飲まなくなりました。

そもそも一人でいるときにはお酒を飲まなくて、サークルとか友達とかといる時に流れで少し飲むくらいだったのですが、摂理に来てからは色々な人と飲み会に行ってもお酒を飲まなくなりました。
この後の変化の話にも繋がりますが、元々私は人からの言葉に反対することにとても強い恐怖を感じていたので、もしお酒を飲むように言われたら断れる自信がなかったです。むしろ無言の空気といいますか、圧力を感じて流されるように飲んでいたでしょう…。
しかし、実際のところは最初の方でお酒を飲めないことを明言したら大体の場合は大丈夫でした。無言の圧力も殆どなく、むしろ自分のペースでソフトドリンクばかり飲めました。(ちなみに、このソフトドリンクをガバガバ飲むことについては「いいペースで飲んでくれて助かる」という話をされました。お酒を飲まないと経済的に均衡でなくなるのですが、ソフトドリンクをたくさん飲むとそれが少なくなるので)
かと言って、お酒がないと全くつまらないのではないか、ということもなく話すべき人と話せるのでそれなりに良かったです。

もっとも、現在の仕事についてから(コロナ流行のこともあって)飲み会自体が少ないというのもありますが…。

人に教える仕事につくようになった

自分にとっての大きな変化の一つが、自分が人に教える仕事をするようになったということです。
現在は教育系の仕事をしていて、多くの学生に数学を教える機会も多いのですが…実を言いますと私が高校生の時は『教師には絶対になりたくない』と思っていました。

その理由は…
「自分が人の人生を悪くする可能性がある、その時に自分が責任を取るのが怖い」
と考えていたからです。
ただですら失敗することがとても怖いし、失敗したら今でも精神が不安定になるくらいのだから、当時の私が人を教える・育てる立場になったらどうなってしまうだろうか…?という不安と恐怖があったので、絶対に教師はしない、と思っていたのです。

そうして大学院生になり、指導教官に教員免許を取るように勧められ…(研究職、特にアカデミックは安定した職に就くまでに時間がかかるので、教員免許を取っておくことでそれまでの仕事の幅が広がります)
なんやかんやで教育実習を乗り越え、気がついたら多くの人に数学を教えるようになっていました。
その間に自分を見つめることで自分が人と関わることが好き、というか人と関わらないと精神的に結構負担になる(かと言って、人と深く関わりすぎるとストレスが強くかかる)こと、数学を教える中で深く理解したことを伝えることが好きなことを知るようになりました。この辺りの自己理解・自己分析は普通就職でするものだと思うのですが、そういう機会が滅多に来ない博士課程でこれができたのは間違いなく摂理に来て壁にぶつかったからでした。このことには本当に感謝です。

そして、実際に教育系の仕事をしながら、教える相手のことを如何に尊重し、寄り添っていくのか、その姿勢を摂理の御言葉や鄭明析先生の行いを通して学んだおかげで現在まで多くの人に受け入れられてきました。
自分が数学を楽しそうに伝える姿や関心を持って話を聞いたことで、嬉しいことに何人かは数学が好きになってくれたり、心が解けたり、信頼してくれるようになったことがありました。これは摂理に来る前では本当に考えられなかったことです。

変化の大本

上以外にも変化したことはあるのですが、書いていくとキリがないので…。
ここではどうして「摂理に来たことで」変化したのか、その根拠について説明します。

まず、摂理に来る前私は漫画やアニメをよく見る人でした。その世界で満足して、その外に出ることはありませんでした。
そういう私が人と関わる仕事、特に教育系に進むことはなかったでしょうし、仮にそうしたら色々トラブルを起こしていたでしょう。

摂理に来たことで、摂理内外で多くの人と関わるようになりました。ここで大事なのは同じような人だけでなく、真反対の人とも接したことです。(むしろ、私のような人の方が少ないまである。私みたいな人他にいないでしょう…)
このことで色々ぶつかることもありましたが、そのことで自分と向き合うようになりました。これが先程の自己理解・自己分析に繋がっていったのです。

また、お祈りをすることで「神様からの答え」を受け、自らの心が理解できるようになったことも大きいです。自分だけだと絡まって理解できず、人に話すにも言語化できていないようなことでも神様と話すとほぐれて言葉にできることがあるのです。

そうやって自分への理解と受容が進むことで、以前より自分自身に自信…といいますか、受容ができるようになりました。自分はうまくできる!という自信はありませんが、「こんな私でも良いんだな」ということは昔より感じられてきました。

そのおかげか、昔は嫌だった「人にいじられること」も今では割と許容できるようになりました。でもあんまりしつこいと流石に負担です…。負担です…。(大事なことなので二回繰り返しました)

このように、自分にここまで向き合ってもらえたのは摂理で神様を信じるようになってからだと思います。本当に感謝します。

おまけ

あ、そういえばもう一つ。摂理に来て大きく変わったことがありました。
私、ツッコミができるようになりました。

私は自他ともに認める「天然」タイプで、昔は人がボケても全く気づかず、どう返したら良いのかわからなかったのです。むしろ返しがぼけになっていたためにボケ殺しになったことも…。
昔、これで一緒にいた教会の人を困らせたことがありましたね…笑

ところが、ここ数年で人と関わることができるようになったのか、以前より心を介さずに話せるようになったのか、はたまた人への関心が増え、自分の発言で悪くなる可能性を考えすぎなくなったのか、原因は色々あるのですが、ツッコミができるようになっていました。
今では教会内で天然ツッコミキャラとして通っている気がします。

…昔の私を知っている人からしたら考えられなかった変化だと思いますよ笑

摂理に来て変わらなかったこと

ここからは摂理に来ても変わらなかったことについて書いていこうと思います。摂理に来て変わったことはよく色々な人が書かれていますが、「変わらなかったこと」についてはあんまり書いていない気がします。
書いていることの中には、自分の今後の課題もあれば、自分の個性もあります。

漫画やアニメ、ゲームが好きなこと

摂理に来てから一時期見ることからは離れていましたが、ゲームや漫画、アニメが好きだということは大きく変化はしませんでした。なんだかんだで現実から離れた世界に対する興味はずっと高いんですよね。
なんなら、数学好きもこの現実から離れた世界に対する興味から来ている節があります。

このゲーム好きを肯定できるようになったのは、結構最近です。前までは自分が好きだと思うのにも葛藤していましたから。

元々ゲームなどの物語を通して神様の御言葉を悟ることもありました。そういう記事も今後は書いていきたいと思っています。どうぞよしなに。

自分の軸・意志が薄いこと

次は今後の課題だと思っていることですが、自分が何をやりたいのかという軸がかなり薄いということです。これは昔からそうで、漠然としたなにかはあるのですが、それを具体的にはできていないという感じがします。

自分の好き・嫌いははっきりしているし、個性も強い存在だと思っているのですが笑
ただ、自分の意志というものが薄いというのは昔も今もそうです。何かをやり通すという思いの強さ、これがあまりないです。これでも昔よりは良くなっていると思いますが…。

これに関してはつい最近見た動画で、少し合点がいったものがあります。

精神科医がこころの病気を解説するチャンネルさんの動画です。最近こちらを発見して色々見ています。

この動画の中でASDの傾向にある人は「中枢統合機能」が弱い、そのために自分が体験したことを自分のものにするということが苦手である、という話が出ていました。
確かに、私は一つの出来事を「記録・知識として残す」ことは割と得意ですが、「それを自分のものにする・自分の中に入れる」ということはそこまで得意ではありません。
私も以前診断で「発達障害(PD)の傾向にある」とされているので、これには納得しています。

動画にもあるように「摂理の中で色々なことを経験しつつ、自己理解を深めていくことで自分自身のことを言葉にしていく」のを積み重ねることで養っていくことだと思います。
年単位で考えていくべきこととありましたので、そのように長い目で自分のことも見ていこうと思います。

まとめ

というわけで、本日は13年間摂理に来たことで成長したこと、変わったこと、個性として残っていること、今後の課題として残っていることを振り返っていきました。

身も蓋もない話ですが、摂理に来たから、神様を信じたからといって何もかもが大きく変わる、ということはありません。全て自分がどのように行うのか、どのように神様を信じて、向き合っていくのか次第です。
これは私自身の成長・変化を通しても、自分の成長しないところからも痛感します。

ただ一つ言えるのは真摯に信仰と向き合い、行なっている人は必ず何かしらの良い方向での変化があるということです。これも私自身の変化から言えることです。もっというと、それは昔の自分から思いもよらなかったことがほとんどです。

色々ありましたが、13年間私とともにしてくださり、めちゃくちゃワガママを言ったり、きかん坊になったり、不安定だったりする私と向き合って下さった神様には本当に感謝の言葉しかありません。
神様が変化させてくださり、私のことを受け入れて下さった愛に少しでも報いる生を生きていきたいと思います。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。