「ありがとう」の反対語~私が「有り難い」存在だ、と感じた時~

こんばんは、satoです。

聖書にも書かれている「いつも感謝しなさい」という言葉。日本ではよく「ありがとう」という言葉を使って感謝の意を示します。
ところで、「ありがとう」とは本来「有り難い」、つまりあることが難しい、滅多にないという意味です。 だから、普段「当たり前」のように感じて価値を失っているもの、たとえば自分が生きていること、親が生きていること、話せること、動けること…それらも本当は「めったにない、貴重な」ものであるわけです。

しかし、個人的にはこう言われたとしても、自分の存在が「有り難い」存在であることは実感できないような気がします。
実際、私もこういう言葉はたくさん聞いてきましたが、それだけでは自分が「有り難い」存在であり、生きていることに感謝できませんでした。

それでか、摂理に来る前も、来てからも様々なことを後悔していました。
自分が罪を犯したこと、自分が熱心にできなかったこと、自分が逃してしまったチャンス… 摂理に来たことを後悔する、ということはなかったように思いますが、自分が罪人のようで、本当に私は摂理にいていいんだろうか…このまま「自分がしていること」を続けていいのだろうか…とずっと悩んでいました。

そんなある時、私は感謝の祈りを続けてました。何があっても、物事がうまくいかなかったとしても、

「神様が私を摂理に呼んでくださったこと」

「私が生きていること」

「私が数学研究をできること」

「私を救ってくださったこと」

「私を変化させてくださったこと」

…など様々なことに感謝をしてみました。
最初は何も感じられなかったし、 半ば無理やり言葉にしている感があってとても違和感がありました。
でも、ある時に本当に感謝する心が湧いてきました。

こうやって感謝の祈りを捧げたり、話すべき人に自分の過去の過ちについて話していくなかで分かったのは

たとえ私が上手くできなくても、その分を主が補ってくださって今の私がいる。

過去の私を否定することは、そこから助けてくださった主を否定することだ。

ということ。
もちろん、過去の私の「間違った行い」は繰り返してはいけません。それは「今」しなければいいのです。 でも、「過去の私」を否定してはいけないのです。そういう私を「神様」が呼んでくださり、救ってくださったのだから。

過去の私にあった出来事が一つでも欠けていたら、今の私は存在しなかった。

このことを悟ったとき、私という存在が如何に「有り難い」存在なのか、ということを感じるようになりました。まるで、私が精密に作られた作品のような宝物であるかのように感じられたのです。

言葉というのは、実体を証するための一つの手段です。 だから、言葉だけを聞いて考えるだけだと実体を感じることは難しいです。

私は摂理の御言葉を聞いて、自分がどうして生まれてきたのか、どうして生きているのか、その理由と意味、神様の愛を知るようになりました。 そして、御言葉を信じて行なって、一つ一つそれが本当であることを確かめるようになりました。 そうやって、一つ一つ自分の価値を悟るようになりました。

私達が生きていることが貴重な、奇跡的であること。
それが本当にそうなのか、そしてそれを「誰に」感謝するのか。(…感謝というのは「対象」がいないと出来ないことですからね)
それらを教えてくださったのが、摂理の御言葉でした。

私を摂理に呼んでくださった神様に感謝します。 そして、この文章を読んでくださった一人一人が神様に呼ばれ、神様の愛を受けて自分の価値を悟ることができるように祈ります。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。