おはようございます、satoです。
摂理の御言葉で
全能なる神様は<人間>を「個性」で創造なさいました。
人の「顔と体の構造」はみんな同じですが、「考えるところ」が違うから、<行なうこと>が違い、<希望し追及すること>がまったく違います。
[鄭明析牧師による主日の御言葉から] 頭は主だ。あなたたちは各肢体だ。引き上げの理想世界より
というように、それぞれの人には個性があり、それをお互いに分かって接することについて話されました。
実は、この週の明け方にあることを実践したのですが、今日はそれについて書きたいと思います。
私が明け方にしたこと、それは愛を与える祈りです。
摂理の教会で共にする人と色々話す中で、お互いの認識観の違いで悩む声を聞いていました。私自身も対話する中でどうしても合わないところがあって、とても苦しかったです。
特に指摘をされ、それがどうしても(感情的に、あるいは理解が及ばなくて)受け入れられないと「もっとちゃんと理解したい」と思ってどういうこと?と聞いてしまいます。本当は素直に受け入れたいのだけど、どうしても受け入れられない時もありました。
主日前の夜に対話する中で「これは本当にまずい…」と思いました。
それで、お祈りする中で感動が来たのですが、それが「その人に神様がもっとたくさん愛を与えてください」という祈りでした。
それを明け方にお祈りしました。そうしたら、この週にこの御言葉が出たのです。
それから一週間、今まであった摩擦がなくなりました(/・ω・)/
なんというか、ある一定の部分においては「これは個性だ、これはその人と神様の間の問題だ」と割り切ることができるようになったからか、それとも「愛を与えてください」とお祈りした分、愛を受けられるようになったからか…。
不思議な事ですが、私自身も不安定だった心が少し安定してきましたし、神様の愛を感じられるようになりました。
なぜ、兄弟のためにお祈りすると、自分も力を受ける、愛を感じるのか?
それは、この聖句から来ているのではないか、と思います。
『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。
口語訳聖書 マタイによる福音書5章43-44節
神様は敵のような人にも必ず愛を与えます。
そして、そのような人を通して助けてくださる時もあります。
(もちろん、この話に出てくる人たちが「敵」というわけではありませんが…)
そのような神様の愛を実践したから、私も神様の愛に近づいて心が楽なのかなと思います。
鄭明析先生はこの「敵を愛する」という実践を極限状況下でも実践された方です。
迫害をたくさん受けてきた中でも、その迫害する人の衣食住のため、裁かれないように、お祈りしていました。
実は私、この「自分が苦手な人のために祈る」というのがとても苦手でした。祈ろうとしても、どうしても自分の感情が出てしまい、「正直イライラが…」という状態でした。
しかし、今回対話する中で人の問題は結局のところ「愛を受けられなかった」からで、それを解くには「神様からの愛を十分に受ける」ことしかないということを悟ったので、神様の愛を受けられるように、という祈りをすることが出来ました。
この祈りだとそこまで抵抗もなく、「そうすれば問題が解かれる」という感覚があったので、私にはとても良かったです。また、その人の状態を見て「本当にまずい」と切実になったことも大きいかもしれません。
何はともあれ、今までの問題が一つ解かれてハレルヤでした(/・ω・)/
この祈りはこれからもしばらく続けて行こうと思っています。そうやって、神様の愛がすべての人に伝わって、本当に神様が与えてくださった「個性」が活かされる世界になればいいなって、最近のニュースを見ながら感じます。
この記事を書いたブロガー
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「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。
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