今年一年を締めくくる神様への感謝

おはようございます、satoです。
今年もいよいよ終わりが近づいています。
そこで、今年の一年を振り返っていきたいと思いますが、結論から言うと

今年は、今までより一層神様に感謝することが多く、大きく変化した年だった

ということです。

今回は、この告白についてもう少し詳しく経緯を説明したいと思います。

1. 罪と自責の念からの脱却

今年の一番大きな変化はやはりこれかな、と思うのが「罪からの脱却」でした。

今年に入るまで、私は罪から抜け出せない状態が続いていました。
自分自身でも「止めたい」と思いつつも、気を抜くと罪を犯してしまい、その度に自分が嫌になっていました。
そのような心が落ちた状態の中、仕事を続けていたことで心をすり減らしてしまい、段々と生きることに対する希望を失うようになっていました。

そのような状態なので、色々なことにチャレンジしようと思ってもなかなか続けられず、自分を出すことが恥ずかしいとすら思うようになっていました。
もともと私は「生きたい」という欲が薄いのですが、それがさらに強くなって希死欲求…「死ぬことで楽になりたい」という考えが浮かんでいた時期もありました…。

そのような中でも、摂理の協会にいる兄弟たちと祈り、一時期調子が良くなったこともありました。
その祈りの中で実際に成されたこともありました。(これは後述)
しかし、根本的なところで力が出ないまま、再び罪を犯して無感覚に陥る…という状態が続いていました。

そんな中で迎えたある日、1つの、罪についての御言葉を聞いていました。
私は罪についての御言葉を聞くことをとても大事にしていました。それは罪について御言葉が出る、ということは、今の自分が持っている罪を悔い改める大きなチャンスだと考えているからです。
この時の御言葉を聞いた私も、今までの自分が犯した罪の深さ、天の心情を感じられて、強く悔い改めよう、と思いました。それで、続けていた色々なことを一旦置く決心をした上で、牧師さんに悔い改めの告白をしました。

この時、神様は牧師さんを通して私の罪を「笑顔で」許してくださいました。
私が泣いて、本当に申し訳なくて、切りたくて話した言葉を全て受け取ってくださいました。
それだけでなくこれまで自分が苦しんでいた「特性」を「愛の強さ、深さ」が強く、深いから起きているのだ、と肯定してくださったのです。

このことが私の心を大きく救いました。罪で苦しんでいた、というより自分を苦しめていた自責の念から解き放ってくださったのです。とりわけ「特性」からくる感情を、自分を押し殺してでもなくしたかった私にとって、「それが愛の大きさから来るんだよ」と教えてくださった言葉は本当に大きかったのです。

それ以降、私は大きくは罪を犯さなくなりました。細かいレベルでの罪は色々あるかもしれませんが、自分にとって「一番切りたかった罪」はしなくなったのです。

そして、この大きな復活の御働きはさらなる御働きを私に起こしてくださったのです。

2.漫画やゲームを通しての悟り

この救いが成されるまでの間、私の心を引き止めていたのは2つ。

1つは「神様がこれまで自分を愛してしてくださったこと」でした。
神様が今まで(このブログにも記録しているように)私に対して多くの愛を施し、私に良くして、助けてくださったこと。それを私は覚えていました。
だから、もしこのまま摂理から離れたら、私は恩知らずの存在になってしまう、それだけは絶対に許せない…と考えて、絶対に摂理から、教会から離れないようにもがいていました。
具体的には、何があっても主日と水曜の礼拝は行くし、守る。御言葉が入らない、聞いていない時もありましたが、絶対にオンラインでつなぐ、ということだけはしていました。

そして、もう1つが「私の好きな漫画やアニメ、ゲーム」を見たり聞いたりすることでした。
時に、好きなバーチャルYouTuberさんの配信を見ながら笑ったり、その優しさに心が癒やされたり、動かされたり。
時に、自分が密かに応援しているWeb小説が書籍化されるのを聞いて喜んで、それを見たり。
ゲームや漫画について色々考察したり。
そうやって、自分が自責によって苦しめている心を、どうにかして和らげました。

もちろん、これらは根本的な解決にはなりません。最終的には御言葉を聞くことで、真理を脳の中に入れ、考えることで罪と苦痛から脱却しました。
だけど、御言葉が入らない状況の中で、それまで私の心と身体を繋ぎ止めていた、という意味では漫画などを通してしてくださったこともやはり大きかったのです。

それとは別に私が読んだ漫画を通して、神様がメッセージをくださったり、対話したり、悟りを得ることもありました。神様が直前に私が読んだものを通して応えることも多かったです。正直、罪の意識があった私はそれを素直に受け取ることができませんでしたが…。

その中で、1つ…上の話と関わる深い経緯を記録しておこうと思います。

これは最近結構話題の恋愛漫画…具体的には「かぐや様は告らせたい」を読んだ時の話です。
たまたまTwitterで流れた広告で試し読みして、なんとなく続きが見たいから当時の最新巻まで一気に読んだ記憶があります。
ちょうどこの頃、主人公二人がついに告白したということで話題となっていました。
その時にかぐや様が『告白を躊躇う』…具体的には『告白して、もし受け入れられなかったらどうしよう…』という恐怖で告白を躊躇う、というシーンを通して

神様も、私達に愛を与える時も、このような気持ちを持っているのだろうか…

と考えるようになりました。神様は愛の方でありますが、同時に愛を受け取ってくれるだろうか…と思う心情もまた持っているのではないかと思ったのです。神様は愛が大きい方だから。

しかし、この漫画を通して考えたのはこれだけではありませんでした…。もっと深いことを対話を通して悟っていたのです。

私の「特性」、それは色々な人…それも女性を好きになりやすいということです。
実は小学校の時から一目惚れをしやすく、色々な女性を好きになっていったのです。最も、自分も付き合うということはあまり考えていない…というか「男女の仲」というより「仲のいい友達」になりたい願望が強かったためか、はたまた色々奇抜なところが見られていたからか、一人も付き合ったことがありませんが…。

だけど、摂理では神様を最初に愛するように御言葉で話されます。その事自体が嫌だ、と思ったことはありませんでしたが、その一方で女性のことが好きになりやすい、という自分の心に深く悩むこととなりました。
実際、教会の人にも思いっきり好感を抱くことととなり、しかし、御言葉を通してすぐに牧師さんに相談、すぐに悔い改めたのでした…が。
そこから、「女性を好きにならないように」自分の心を押し殺し、考えを変え、罪を犯さないように、自分を抑えつけ続けていました。

そこから、色々な人に相談したり、神様に祈ったり、御言葉を聞いたり…ともがきました。
ある牧師さんには「女性を好きになる」心自体は神様が作られた心でもあるから自分で抑えてはいけないとアドバイスを貰って、心が救われることもありました。

ところで、私にはある「才能」があります。それは

漫画などの作品のキャラで自分が多く見てきたものは、自分の心の中で”さも実際に存在するかのように”話したり、対話できる

ということです。摂理に来て間もない頃は自分の好きなキャラを72人(?)くらい入れていて、皆信仰を持って生きていて幸せに暮らしていて…ということがありました。
おそらく、これは聖霊様の感動とか、そういうものを具体化したものでないかな…とは思いますが。

で、この「かぐや様は告らせたい」のあるキャラも色々な経緯を経て、自分の心の中で対話できる状態になっていました。
で、そのキャラを通して自分自身の恋愛について対話形式で深く考えるようになりました。

そのキャラを通して与えてくださった神様の結論は…

多くの人を愛するようになったとしても、その愛に流れることなく、神様の信仰と愛をひたすらに守ろうとした。
その方法は正しくなかったとしても、それは間違いなく『神様を愛したこと』になる。

ということでした。これは、1番目の話で話していた牧師さんの話と重なっていました。
そのことに感謝をしながら、喜んだり、罪を犯さないように頑張ったりしていました。

このように、多くのキャラクターや物語を通して、自分の心を変えてくださり、時には優しく、時には厳しく、刺激を与えたり、癒やしを与えたり、自分の心にやる気を与えてくださったり、と色々助けを受けたのでした。
それは、今の私にも残っています。キャラクターを通して学んだこともまた、自分の糧となり、変化の礎となっているのでした。

なお、余談ですが、この心が死んでいた時期、1つのキャラを通して再び心の中にキャラを入れるようになったのですが、その始まりが、だいぶ昔に話した“山”編(余談ですが、これは麻雀漫画の『咲』からの経緯です)です。それから、全部で12キャラ入っていたのですが、

「やるというのでなく、すぐにやるのだ」と銃で心に火をつけたり

「あなたの夢はなんですか?」と星とともに尋ねたり

燕さんが「罰は受ける、けれど最後には一番の幸せはもらう」と、罪の悔い改めを肯定的に考えさせたり

塔を作りながら、鄭明析先生が如何なる苦労をしてここまで来たのか、その一端を悟らせてくれたり

なんてこともありました。これはこれで色々話せるのですが、ここではこの「”月”編」のこの話で留めておきます。時間ないです(´・ω・`)

…皆、やっと、戻ってきましたよ、っと。

3. スポーツへの参加と復活

そんなこんなで、精神が復活した私ですが、それから教会で行われるスポーツ、具体的にはサッカーに毎回参加するようになりました。

実は、それまでの間、精神の不調に伴って体調もあまり安定せず、特に礼拝後に行われたり、朝に行われるスポーツ直前で頭が痛くなったり眠くなることもあってほとんど参加していませんでした。

この体調不良、実を言うと今も割とあります(笑)
正直眠かったり頭が痛かったりすることもあるのです。だけど、

このくらいならなんとかなるかも…

と思って参加できるようになっていました。それだけでなく、長年サッカーをやっていても分からなかった動きが分かるようになり、どう動いたら良いのか、どこにパスを出せば良いのかを見ることができるようになったのです!

そもそもサッカーのように「長く走る」競技が苦手…というより嫌だった私でしたが、摂理でサッカーすることで少しそれが薄れました。
でも、どのように動いたら良いのか分からず、うまくいかないことが多かったので、あまり好きにはなれませんでした。

しかし、この辺りで見ていた将棋の動かし方、特に守り方を通して空間を見ることができるようになったこと。

教会でサッカーをする人を通して霊的に、神様を意識して…より具体的には「神様が働きかけようとする人」を見てやる、ということを学んだこと。

それを発展させて神様がどこから働きかけるのかを見ながらプレーできるようになったこと。

これらを実践できたことによって、これまでのサッカーに対する理解度が大きく高まったのです。特に後ろ側の場合は今までよりうまく回せるようになっていました。
未だ前の方だとどうやったら良いのかわからなくなることがありますが、以前より楽しく、神様と一緒にサッカーをできている実感が湧いています。

だから、今はサッカーに参加することを前向きに捉え、楽しんでいます。
もっとも…皆とするサッカーが楽しいので、一人で練習するほどにはまだできてませんが。

また、この定期的な運動によって私の体調と体力が改善され、その後の生活も大きく良くなりました。

4. 新しい仕事の御働き

話は変わって、3月頃に兄弟とお祈りした時のことです。
この時、ちょうど新しい仕事の応募があったのですが、今まで私はそもそも書類を締め切りまでに書くことができずに逃してしまうということが続いていました。
そこで、この仕事が神様の御心ならば入れますようにと兄弟にお祈りしてもらいました。
そのことによって

(このまま締め切りまでに書けなかったら申し訳ない…)

と考えた私は頑張って書類を書き上げ、応募することにしました。その結果

色々な人が応募してくれましたが、satoさんにお願いしようと思います。

と採用されることとなったのです!それも半年でなく一年間の採用。

半年での採用が多い私の仕事ですが、一年間というのは経済的にも色々安定してとてもありがたい。しかし、今まで経験のなかった場所での仕事なので、緊張もしますし、準備することも多くて大変でした。

当初はオンラインでの作業と実際に通っての作業、両方があってとても大変でした。今までやっていた仕事と続けてだったので、準備の量はかなり増え、一時期は作業に追われっぱなし、ということもありました…。

しかし、新しく得たパソコンとタブレットを駆使することで、段々とリアルタイムでの対応ができるようになり、気がついたら、仕事の質の次元が大きく上がっていました。

11月からさらに仕事の量が増え、一時期は1日毎に別の職場に通うなんてこともありました。しかし、この忙しさのおかげで

暇な時間がなくなり、精神が遊ばなくなった。ボーッとする時間が減ったので心が常に意欲的になっている。

疲れて眠ってしまうので、結果的に安定しなかった睡眠リズムが安定するようになった。

今まで考えられなかった数学の深い部分を考える機会が多くなり、色々な分野の理解度が深まった。

色々なところで、色々な人を教えているためか、今までより「教え方」の幅が広くなり、わかりやすくなった。

何より、たくさん働いたので、その分たくさん経済の祝福が得られた(笑)

という多くの祝福と糧を得るようになりました。

5. 教会の使命の御働き

ここまで仕事が忙しい中で教会でも使命を続けていました。
特に、礼拝を守る際に皆がオンラインで御言葉を聞けるよう、教会に行ってパソコン等で配信をするという使命が一番多かったです。この使命は長年続けていましたが、特に今年はその頻度が多く…。
一時期は一週間の半分の明け方礼拝担当が私一人ということもありました…今もそうです。
先程の仕事の多さと移動の疲れの中、自分ひとりが寝坊すると、教会の礼拝に大きく影響を与えるというプレッシャーがあって守るのには大変苦労しました…何回か寝坊してしまったこともあります(´・ω・`)
それでも、この使命をやったことは本当に良かったです。

まず、私の精神的な苦痛の状態だった時も、この使命があったことで教会に行って礼拝を守る必要性があったのです。教会の中でも礼拝の時間に自由に動きやすい私(正確には、礼拝に合わせて仕事のスケジュールを調節している)だったので、多くの礼拝を教会で守れました。

また、明け方に起きるのは大変ですが、その分教会でお祈りできる期間が多かったのです。これは、「祈りなさい」と宣布されていた時に大変ありがたかったです。特に、11月以降はその忙しさに比例するかのように、深い祈り、神様と通じる祈りも多くできていました。

以前話していましたように、教会内で自分の条件を決めて守る修養会があったのですが、その中で「30分以上自分の考えを置いて祈る」ということをやっていたことも相まって、今年の後半は特にお祈りが深くできました。
その一端がこの使命にあります。

何より、この使命を最後まで諦めずに行なっていくことで、「忠誠者よ、よくやった」という今週の御言葉を本当に深く実感できました。

この使命を通して得られたものはあまりに多く、またこの使命の価値を深く悟る一年でした。

6. 数学の研究での御働き

このように、教会でも仕事でも忙しい状態だと数学の研究があまりできないという心配もありました。
実際、忙しい時は流石に数学研究どころでない、後回し…ということもありました。
しかし、実際には数学研究でも大きく…かは分かりませんが、進展がありました。

先程紹介した修養会の中で、『一日に一回は研究する』というものがありました。
ところが、条件を決める初日、決めたのが18時過ぎで色々やっているうちに本気で時間がなくなってしまいました。
このままでは条件が守れなくなる!と思った私は

博士論文を読みなさい!

という強い感動に従って、改めてかつて書いた博士論文を読むことにしました。
その時にふと「この問題をもう少し詳しくやろう」とひらめきました。

その結果、この期間の間に博士論文に書いた結果をさらに詳しく研究することになり、結果こそ得られていませんがさらに深めることができました。

このように短い時間でしたが、しっかりと研究も進めることができました。
また、別のゼミの時も、発表された方が話している具体例を聞いてふと感動が来たので、その例に当てはまらない簡単なものについて密かに考え、それについて発言したところ「それも考えてみましょう」と採用されることになりました。

短い時間であっても、感動が来れば神様とともに研究ができる、ということを悟る一年でもありました。

来年も頑張って研究します。

7. 最後に…

そして、一番最後、最も大きく感謝すべきこと。
それが、自分の考えが少し変わったことで自分自身を受け入れられるようになったことです。

たとえば、今まで私は話している中で人の心情を傷つけることがありました。
また、周りへの配慮が足りず注意を受けることが多かったです。

今まで私はこういうことがあるとショックを受けて、自責に陥るか、自分が何がダメだったのか考えるか、不安から血気が出るか、のいずれかが起きて、コミュニケーションが取れなくなっていました。

「古いものを葬りなさい」の御言葉が宣布された時にこのことが起きていたのですが、

こころさんの記事を読みながら「自分も人が怖いと思っている、信頼できないと思っている」と感じた一方で、「親や友達を信じてないわけでもない」と考えるようになり、

自分が持つ発達障害の傾向の中に共感性の欠如があるが、自分は「空気は読めるが、共感ができない、できてもどうしたら良いのか分からない」ということがあり、

最終的な答えとして今まで「自分の気持ちがうまく伝えられず」「相手の気持ちが理解できない」ことで失敗したコミュニケーションの経験から、相手を傷つけたことで諦めてしまうということが得られました。
特に、自分の話し方は「気持ちを伝える」というよりは「なにかしてほしい」と伝えるためのコミュニケーションでした。実家の環境もほぼ同じで、自分に何か話す時は「やってほしいことがあるから」なのだ、と思っていました。
しかし、実際にはこのようなコミュニケーションは一般的でなく、この認識のズレがこれまでの人間関係における失敗につながっていたということが分かったのです。

このことによって、もしかしたら、過去の人間関係の失敗もうまくできた可能性があったのでは…と悟ることができました。過去のことはどうにもなりませんが、これから改善できる可能性がある、ということが分かって、私の心が大きく変化しました。
なお、21年間逃げ続けてきた〇〇…かぼちゃコロッケと向き合った話がありましたが、同じくらい逃げ続けてきた「人に気持ちを伝えること」と向き合ったのがこの話になります。

もう一つ、自分が受け入れられるようになったことがあります。それは自分が男性であるということです。
…自分が男性、ということはもちろん認識していますし、それを否定するつもりはありません。
ですが、一方で自分のもがいていた罪の一端が「自分が男性である」ことに起因するということもあって「男性としての自分」を受け入れるのがとても難しかったです。

このことについて、今年は何回も悔い改めの祈りを捧げていました。本日もそれをお祈りしていたのですが、もっと深く祈った時に…

これまで見てきた文化は神様のことを知らないで作られたものだから、間違いがある。それを見てきた多くの人も知らないでやっているんだ。
本当はやりたくなかったけど、知らずにやっているうちに作られてしまったものなんだ…

と考えるようになりました。そのことを深く悔い改めることで、神様は男性だから、神様の姿が本来の男性のあるべき姿なんだ、鄭明析先生の姿が男性の理想の姿なんだと深く受け入れられるようになりました。

私も神様を知らない文化に長く触れ続けてきたから、まだ完全に変化はし切れていませんが、続けて悔い改めつつ祈ることでもっと大きく変化できる、そのきっかけを掴むことができました。

このように、自分の思い込みによる自己主観が崩れて、古かった考えが葬られることで、自分が大きく変わったことが一番の感謝です。

最後に

だいぶ長くなってしまいましたが、その分、今年は色々濃く、深く、神様が働きかけてくださり、大きく変化をした一年だった、ということです。
何より主の祈りと御言葉を通して、自分の古い考え、固執を解いてくださり、私自身が神様の愛の対象として大きく変化したことに心から感謝します。いつも摂理にいる私を含めた皆のために祈ってくださり、毎週御言葉を伝えてくださる鄭明析先生と、牧師さんに心から感謝を捧げます。

今年は本当に自分自身が大きく変化した一年で、特に自分を受け入れられるようになったことが大きかったです。
来年も神様に一層深く祈ることで対話しつつ、御言葉で新しく作り、ブログも、発信も頑張りたいと思います!

最後になりますが、今年もこのブログを見てくださったことに心から感謝します。
それと、今年最後の感謝としてはこのブログを個人ブログとしてリニューアルすることになったことですね。これも1つ、神様がより自分の個性を活かせるようにしてくださっていると感じます。サポートしてくださる方にも本当に感謝です。本当にありがとうございます。
来年はブログのリニューアル作業もしながら、一層新たな姿をお見せできればと思います。ご愛読のほどよろしくお願いします!

と、ここで一応終わりなのですが、個人的に今年もう1つたくさん活動したことがあったので、これもまとめていきたいと思います。

8(EXターン). ゲームを通しての…

今年はデュエプレを通しても、色々新しいことが起こりました。

…と、唐突に出てきた「デュエプレ」ですが、これはデュエル・マスターズプレイスというソシャゲです。
昔デュエル・マスターズをやってきた私、YouTubeで色々見ているうちに

「またやってみたい」

「せっかくだから色々なキャラクターをモチーフとしたデッキを作りたい」

と思っていたのですが、紙で買うのはかさばるのと、保存場所がないことから諦めていました。
ところが、そこにスマホでできる「デュエプレ」がリリースされました。リリースされてすぐにインストールし、ちょこちょこ課金したりして色々デッキを作って遊んでいました。

で、一時期断舎離したり、しかし続けていたこともあった「デュエプレ」ですが、今年になって1つ新しいことをやってみました。それが大会への参加でした。

といっても、公式大会はレベルが高すぎて、正直参加できなかった(プラチナ3以上が参加条件なのに対して、私は最高がプラチナ3だった)のです…。

一回ルームマッチをやってみたい…と思っていた私が、Twitterでフラフラ見ているうちに、私がよく見ているYouTuberの思い出のデュエマさんが「VR以下限定デッキ」で大会をする、というのを見かけるようになりました。
自分が子供の頃にちょうど見ていた漫画のデッキの再現度の高さと、とても優しい雰囲気で好きだったこともあって、何の気なしに…本当に何も考えずに、大会にエントリーしていました。

最初に参加した大会では、勝手がわからず最初の試合に参加できなかった(その節は本当にご迷惑をお掛けしました…)というトラブルもありましたが、リスナーさんも含めて優しい雰囲気で、私もとても楽しくデュエルすることができました。その節は本当にありがとうございました。

その後も(色々な物語のキャラをモチーフとした)デッキを使って思い出のデュエマさん主催の大会に参加し、リスナーさんと交流しながら、デュエマを楽しくやっておりました。
また、闇と『地獄スクラッパー』を使わずに優勝してほしいと教会の人に言われて以降は「光の天使主体のデッキ」で勝てないか挑戦するようになりました。
その結果、「アーク・セラフィム」(天使といえばエンジェル・コマンドが思い浮かぶのですが、こっちも天使)を主体とした光水のブロッカーデッキで準優勝まで行けるようになりました!
なお、このときの試合ではシールドトリガーに助けられることが何回もありましたが、この時神様に共にしてください!とお祈りをして臨んでいたので、一層神様の助けを感じながら感謝感激してプレーをしていました。

そういうわけで、新しく大会に出たことで、これまで交流できなかった多くの人と交流できるようになりつながりを持てるようになったことは本当に感謝です。
特に、VR杯を主催してくださった思い出のデュエマさんと、そのリスナーの皆様には本当に感謝申し上げます。

ところで、私は6月の御言葉以来デュエプレをやらなくなりました。
デュエプレ自体はとても楽しく、(ランクマッチ以外は)嫌なこともなかったのですが、それでも現在まで離れています。
その理由の1つは「信仰の回復」に集中するためだったのですが、それとは別に調子を崩しやすい原因もありました。

1つはデュエプレをやるきっかけでもあった「様々な物語をモチーフとしたデッキを作る」ことです。
もう少し具体的に話すと、私がデッキを作る時は「1つのキャラが使う能力・性質を反映した」ものを作ろうとします。それは、自分の中にある物語を再現するためです。
ところが、これをすることは私の心にあるキャラクターを強く前に出すことと繋がります。実際、キャラクターモチーフのデッキを使っている間は、「そのキャラが喋ったり考えたりする」ようになりますし、そのキャラに沿って考えたほうが強くなるのです。
でも、これは神様を考えに入れられなくなるので、調子を崩すのでした。
実際、神様の考えを入れた上で作ったデッキでやった場合は(他の要素もあるとはいえ)神様との繋がりが強く感じられました。

この「神様を入れると他のものが否定されて、結果的に創作の幅が狭まる」という考えもかなり根深い私の思い込みの1つでした。これを悟ったのは昨日(12/30)のことでしたが、このことを悔い改めることで、神様を含めた創作をできるようになりました。それも、今までの自分の世界観をそこまで損なうことなく。

また、「そもそもデュエプレで達成したい目的が薄い」ということもあります。
自分の方針がないので、それに合わせたデッキを作れない、モチベーションが上がらない、ということがありました。
やっている間は楽しいですが、どうしても一定を越えると苦痛になってしまうのです。目的がないので…。
なので、続けられなくなった、というのもあります。

最後に、これはMiKさんのこちらの記事を読んでいて気づいたことですが、「神様を信じている私がゲームをしていていいだろうか…」という考えが強かったということです。
他にすべきことがたくさんあるのに…他の人に御言葉を伝えて神様を信じられるようにすることが一番神様が望んでいるのに…ということを気にしながら、ゲームをしていたので、結構心がすり減っていたなぁ、と振り返りながら思いました。

ただ、これらの問題はいずれも先程の大会で方向性は見えているのです。

神様の雰囲気があるデッキ、御言葉を指針にしてデッキを作り、それを通して大会に参加することで多くの人と繋がったり、話したりする。

これは少なくとも上の問題はクリアできているんですよね。

あと、デュエプレをやっていたもう1つの理由がバーチャルYouTuberとしての活動の一環になるかなということです。実際、何個か動画も撮ってみました。ただ、かなりいい展開だったのに音声がうまく取れなかったり、ガチャをやってみたり…と色々うまくできなくて動画にできなかったんですよね。

果たしてデュエプレを止めたほうが良いのか、否か。
実は「離れる」感動はあっても「切る」感動は今のところなくて…ですね…。これは2022年の方針次第かなと思います。

私を受け入れてくださる神様に心からの感謝を

2番目の感謝にも繋がりますが、今年は自分の中にある「漫画、アニメ、ゲーム好き」なオタク気質をも神様が受け入れてくださっている、ということも感じました。
実際、デュエプレを通しても、神様が共にしてくださって助けてくださっていることを大きく実感しました。
実は、12月にある方とお話しする中で「自分の中にある好きなことを分析する」というものがありました。

たとえば、私は女性を好きになりやすい傾向にある、という話をしましたが。
より具体的には

・やさしい、受け止めてくれる

・笑顔がかわいい、キレイ

・気が合う

人を好きになりやすいという傾向にあります。これらは全て聖霊様(女性)の気質でもあるのです。実際、私は聖霊様が大好きで、上の傾向に加えて「はっきり話してくださるし、納得できるようにしてくださる」ということもとても嬉しいのです。

また、漫画の世界が好きなのはそれだけ平和な世界、理想世界を愛する心から来ているということもあります。
このように、漫画を通しても多くの御心を悟れるんですよね。
その個性を殺してはいけない…ということもまた、感じます。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。