ずっと私の中にあった「本当の私がいる」という感情の正体

おはようございます、satoです。

ある金曜、御言葉を聞くためにみんなが集まるのですが、そこで御言葉を聞きました。
図らずもこの日は「御言葉を聞いてこそ変化できる!」という感動、といいますか悟りというのを持っていたのと、それなのに御言葉をあまり熱心に読んでいなかったな…ということに気づいて悔い改めをしていました。だから、ちょっといつもよりテンションは高かったのです。

が。

結論から言うと、御言葉をちゃんと聞くことが出来ませんでした。
どうしてかというと、御言葉を伝えてくださっている人を見て、色々な感情が出てしまったからです。寂しさ、嫉妬、様々な感情が。それは、以前御言葉を聞いた時から出ているのに気づいていたのですが、放置してしまっていた感情でした。

人を見てしまうと、どうしても御言葉がうまく入らない時があります。
私の場合、だいたいが「どうしてあの人はこんなに自信を持って言えるのだろうか…」とか「あの人を神様は特別に思っているんだな…」と考えて、寂しくなってしまっていたのです。
でも、御言葉は「人」でなく「神様」が伝えてくださるものです。そのことに途中で気づいて少しずつ神様を観るようにしました。湧き出る黒い感情をかき分け、なんとか御言葉を聞こうともがいていました。
おかげで、かなり精神的に消耗してしまいました。

その後、お祈りの時間もこの感情のためにまとまらなかったのですが、ふと「悔い改めよう」と思って、その人に対して抱いていた感情を素直に悔い改めました。そうしたら、少しずつ落ち着いてきて、聞いた御言葉も少しずつ思い返して、神様の愛を感じるようになり始めました。
そして、それと同時に色々なことがわかったのです。

私の中にある「本当の私」

私は小学生の時から、ずっと「学校にいる自分は本当の自分でない」と思っていました。
学校にいる時の私はいつも楽しそうで、普通に笑っていました。でも、家にいる時は違いました。ダラダラとしていました。まぁ、家にいるときにダラダラするのは普通の人にもあることですが(笑)
ただ、私はずっと怒り、憎しみ、そして寂しさを抱えているな、ということを気づいていたのです。

これ、今持っている感情と同じなんです。そして、それを深く突き詰めると、一つわかったことがあるのです。それは

過去あったことは変えられず、それによって残っている感情を直接変えることはできない。しかし、その感情に由来する「考え方、思考回路」を変えることはできそうだ。

本当は怒りたい。人に当たりたい。そんな感情を持っていた私。私はそれを「本当の自分」だと思っていました。
ただ、私が学校で笑っている、楽しんでいる。そんな自分もまた本当の自分なのだと、あの時の私は気づきませんでした。
そして、「本当の自分」を出したいと思って、高校時代から少しずつ負の感情も出すようになったのです。
特に摂理に来てからは、この感情をうまく出したくて…ちょっと素直でない私になっていました。それが、今の私の状態です。

この感情が「自分」であることは確かです。ただ、その感情を出せばいい、それが本当の自分だ、ということではなさそうです。
自分が持っている感情は認めつつ、それを「表現する」のでなく「治める」ということで解決するということを、摂理に来て理解し始めました。それが、「思考回路」の変更です。
そして、私の中にある「喜び、人といて楽しい、嬉しい」という感情もまた本来の私だということを認めてあげないといけません。

こうやって、思考回路を変えていくと、私のこの感情の原風景が見えてきました。
それは、今の私の行動の一部は「幼少期に弟に接していた」のと同じだ。ということであり、その行動の根本にあるのは寂しさだった、ということです。
この寂しさを変えることには時間がかかりそうですが、心の動きを理解して行動や考えを変えていくことは出来そうです。それが「悔い改め」になるのだと思います。

御言葉を聞くと

御言葉を聞くと、「自分の心」が浮かび上がります。自分が御言葉を聞けないことも色々原因があるのです。
だから、もっと変化することができるし、もっと自分を愛せるようになるのです。
神様は、私たちを愛しているのですから。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。