自分の心の「黒い部分」について

おはようございます、satoです。
今日は私が最近もがいている「自分の根本の認識」について書きたいと思います。

私は昔から「自分は悪い存在である」「自分は汚い」という感覚をずっと持っていました。
自分の心にある怒りや暴力性、衝動性、狂気を「本当の自分」と考えていたのです。
それで、周りからは「いい人」と思われてましたが(どちらかといえば「面白い人」かも)、私はそういう自分を認められませんでした。

それで、かつては「自分が関わったら失敗する」と思ってあまり信仰に関することには関わらないようにしていた時期もありました。また、何か失敗したことがあると(直接的な原因がないはずなのに)「自分が悪い」と考え、責めるようにしていました。実はこれ、「他の人が悪い」だと自分の衝動性、怒りに任せてその人を悪人として責めようとする心があったから、ある程度「自分が悪い」とすることで相手を悪く見ないようにしていた、という心の動きもあったのだと思います。

このように、私は暴力性や怒りを持っていた一方で「相手を傷つけたくない、大事にしたい」という心もありました。
だからこそ、自分の衝動性に苦しんでいました。

今年に入って、この部分はだいぶ改善されました。
まず、自分が汚い、とか、自分のせいで失敗する、というのはある意味では正しいところもあって、神様の前に罪があるから汚く感じるし、自分が上手くできたらもっと良くなった部分はあるのです。
問題だったのはそういう自分がいることを認められなかった、というところです。最近はこのような自分を認められるようになってきたのか「自分が汚い」と感じていた部分が「もっと綺麗になりたい」と思ってお祈りするようになったし、「失敗した」としても「自分はどのようにすれば良かったのか、もっと上手くやれたら次はできるようになるかも」と前向きに受け止められるようになってきました。
この辺りは、牧師さんとの対話の中で解決していった部分もありますし、そういった自分を変える努力をしてきたことで自分に対する認識が良くなってきたのかもしれません。

また、狂気については「自分のストイックな性格」が由来していると理解できてきました。
私の推しであり、内面化しているうちの一人も似たような気質を持っていて(というより、その共通性があったから推しになっている)、物語の終盤でそのキャラが「終焉に惹かれていた」というより「終焉に立ち向かう一瞬の生命の輝き(もがき)が見たかった」ということが分かって、自分もこれに近いのかなと少しコントロールできるようになりました。

そして、「怒りや衝動性、破滅願望」の大部分は「自己否定」から来ているということも分かりました。
ここについては、聖霊に願い求め「自分はよくやっている!頑張ってる!」と感動を受けられるようになって落ち着いてきました。つい最近コロナでダウンしていた際ずっとスマホをいじっていたことで少し自己否定気味になっていましたが、今これを書きながら改めて「自分は頑張っているし、頑張ってきた」と思い直して少しずつ良くなってきました。

ここまで、だいぶ自分の認識について解決できてきたのですが、一つ残っているのは自分の心の中にある黒い何かです。
初めは寂しさなのかなと思っていたのですが、どうもそういう「悲しい」感じとも違うのです。かといって以前書いた「無」とも違う、何か黒いものです。この部分についてお祈りをしていたのですが、これはおそらく幼少期自分の動き、多動性や衝動性をコントロールできず人や物を壊して怒られた経験から来ている部分があるのかなと思うようになりました。
どうも、「自分が悪だ」と感じるのは「自分が魔王のように暴れ回っていた」ように認識している部分から来ているみたいです。

確かに、私が子供の時おもちゃなどを好奇心のまま色々いじるうちに壊してしまうことが多かったです。というか、今も物持ちはかなり悪いです。どうも自分は「丁寧に扱う」ことが苦手で…。
この「丁寧に扱うのが苦手、ちょっと面倒くさい」と考える心が黒い何かと関わっているのではないかな…と推測します。

今日は自分の心の状態について整理してみました。
改めて見ると過去の自分に比べてだいぶ負の認識がなくなっているのを感じております。神様に本当に感謝します。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。