おはようございます、satoです。
現在私は仕事で数学を様々な人に教えています。
その中で私は色々な問題を投げかけます。時には私自身答えが分かっていない、あるいは正答が色々ある問題、また自分自身がまだうまく言葉にできていない問題もあります。
こういう問題は過去自分が読んできた本で答えを知っていたり、問題を知っていたり、あるいは自分自身が疑問に思ったことを基に作っています。
で、こういう問題に対して色々な人の答えを聞くのですが、時々「私自身が気づかなかった面白い解答」が出てくることがあります。
大体100人いて数十人は当たり前の解答や初歩的なミスのある解答を、数人は私の知っている解答を、そして大部分の人は取り組まない、もしくは取り組めないまま終わってしまいます。その中で一人か二人、「私自身が気づかなかった面白い解答」を出してくれます。
それは私自身が本当に正しいのか分からなかったり、ちょっと違うけど何か面白そう、という感じの解答です。調べてみると結構本質的な内容であることもあります。こういう時、私の授業は最も大きな成功をした、と言えます。
なぜなら、私は「単に一方的に教える授業」というよりは「対話によって何かを生み出せる授業」を目指しているからです。
私の問いかけに対して、時たま出て来る解答が「新しい発見」を生み出すのです。
何もこれは「本当に正しかった」答えに限りません。
時には「間違った解答」だとしても、そこから「新しい発見」があります。
私自身が思うに、答えのある問題に対して「正解」より価値のある「間違い」があります。
それはより本質的なところを見せてくれる解答です。
同じ間違いでも、「あぁ、そこがわからないんだな」というところに気づけるものだと、それを通して「本当の解答」の意味を正しく理解することが出来るのです。
実はこれ、答えを見る私自身がそれを引き出せるかどうかに掛かっているのかもしれませんね。
最近読んだ本の中に光を描くには、影を追わなければならないというセリフがありました。
とても納得がいきます。光のある立体を描くためには、見えない光でなく見える影を描かなければ表現できないから。
これと同じように、「間違った」ことを通して「正しい」ことの本質が見えるなら、それはある意味で「無駄のない間違い、面白い間違い」なんですよね。
御言葉も同じかもしれません。
御言葉に出会う前に大変な人生を生きた人ほど、その価値を感じられるのだと思います。それこそ「光と影」のように。
また、「間違い」を通して「正しいこと」を悟ることが出来るのだと思います。
というわけで、私は今日も面白い問題を探すのでした。
この記事を書いたブロガー
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「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。
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