自分の力でなく、神様の力で。-想像力の欠如が部分的にある私のもがき

こんばんは、satoです。

私は「想像力」が豊かなように見えて、実はそうでもなかったりします。部分的に想像力が働く(むしろ働きすぎる)ところとそうでない(全く働かない)ところがある、といったところでしょうか。
特に「事前に人がどう思うのか」を予測することはかなり苦手です。もちろん、「この言葉は良くなさそう」と自分が感じるものは避けているのですが、それ以上のことを論理的に「何もなしに」想像するのはかなり苦手です。
これは「自分の中に土台がない」ものを想像するのが苦手な私の傾向から来る問題です。
ゆえに囲碁や将棋、麻雀のような「先読み」を必要とするゲームは比較的苦手です。ただ、「自分のルール」に基づいて将棋を打ったり、麻雀をすることはできて、そのシステムでたまに麻雀はできますが(*‘∀‘)

これに加えて「どうしても自分主観で考えがち」なので…相手の問題を「自分と絡める」と途端にうまくできなくなります。いわゆる「その人の気持ちになる」というのが苦手です。
一方で、純粋に相手のことだけを考慮するなら割とうまくいきます。とにかく「自分が絡む」とうまくいかないんですよ…。

祈りもそうです。
普段祈るとき何もないと「何を話せばいいのかわからない」と言ってやみくもに話し、ただ時間が過ぎることが多いです。
しかし、御言葉を聞いてそれを参考に祈りの文章を作って何回も読むともっと祈りがまとまります。
そう、「見える形」にすればある程度想像力が働くのです。
(私が考え事をしているときにその結果を口に出しているのは、「思考したことを見える形にする」ためです)

そうして見えるようになれば、もっと改善点が見えてきます。
繰り返し読めばもっといい文章が思い浮かびます。
…でも、それだけでは「感動させる」ことはできません。

私が努力し、祈って心情を受け、少しでも神様に近づこうと努力した上に、神様は働かれます。
どうして神様が働かれたのかが分かるかというと、自分の力ではできないような「感動のみ働き」が起こっているからです。
私の力ではできませんから、神様の力です。
だけど、私が努力しないと神様が働かれないから、「神様が働きかけてくださるだろう」と私が何もしないでいいわけではありません。

結局私の力ではできないことも、神様の御言葉通りにしようと行ったなら「神様の力」でできるのです。
それが信仰の味ですね(*‘∀‘)
「想像力」の足りない私でも、うまく工夫すればそれを補うことができます。だからこそ、もっと頑張れるのです。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。