「何を言われても揺れない」鄭明析先生の心

こんばんは、satoです。

自らの責を負う、人に何を言われても私は「自分が研究者になるためにすべきことをする」。
そう決心してから、私の心は軽くなりました。また、この過程を通して一つ学んだことがあります。
それは、人にダメ出しをされたり、失敗をしたとしても誠実に接する方法です。
簡単に言うと、それは失敗を責められたとしても感情的に話したり取り繕うのでなく、自らの非を認めその上で意志を示す」ことです。
より具体的には「はい、いいえ、お願いします、すみません」という言葉を話すことに集中する、という感じです。

以前、教授は私に「教師になることを薦める」と話していました。
私はそれを「研究者になることを諦めるよう」に聞こえました。なので、自分の将来の話をする時も過去の自分の失敗や足りなさを言われると思って身構えていました。
そして、それに対して自分がどういう思いで将来を考えているのか、これまでの自分の姿勢についてを話すつもりでいました。
しかし、神様はいくつかの人を通して私のこれらの「推測」を止め、「教授のスタンスによらない最善の方法」を教えてくださいました。つまり、教授の意向を変えるのではなく、教授がどういうスタンスであっても「自分の意志に従って行なうこと」という方向と具体的な方法でした。

これは教授だけでなく他の人とでも、また研究だけでなく色々なことでも当てはまること。
他の人が何を言ったとしても、神様の心に叶うことをする姿勢を曲げず、かと言ってその人に分かってもらうとかを願うのでもなく、「自分がすべきこと」に集中するということは大事ですよね。
たとえば、過去苦手に思っていた友人が居たとしても、「自分の非があるところがないか」考え、非があればその人に責められたとしても「謝って、これからどうしたいかを(感情的にするのでなく、はっきりと)伝える」ことをする。
自分が何か間違いを犯したとしても、それについて言い訳するのでなく、何を言われても「自分の非を認め、謝り、どうフォローするのかを伝える」ということをする。

鄭明析先生も、人に何を言われたとしても「神様を愛すること」、「神様の御言葉を伝え、御言葉に聞き従うこと」、そして「すべての人に愛を施すこと」を止めませんでした。
考えてみると、鄭明析先生の人生は人からの否定的な発言を投げかけられることが多かったです。
故郷では親や周りの人から「将来はどうするのか」と言われ、「何の取り柄もない」と言われ。
修道生活をしている時は「気が狂った」とか「神様に対する信仰が行き過ぎている」と言われ。
御言葉を伝えている時は「異端だ」とか「その御言葉は間違っている」と言われ。
世界巡回をされている頃には濡れ衣を着せられ、多くの悪評を言われ…。

そんな中でも、鄭明析先生は神様の愛と御言葉を伝えることを最後まで止めませんでした。

私が【人に何を言われても】研究者になることを目指すということを決心して行動した時、そんな鄭明析先生の心に、ほんの僅かですが触れた気がしました。
今なら少しは分かります。
たとえ人から何を言われても、心が痛むとしても、その心は「希望」と「喜び」で覆われるから前に進めるのだ、ということが。
その希望と喜びは…神様の御心に従うなら、必ず霊も肉も栄え、喜びが絶えないということを知っているから。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。