棋聖戦第三戦と私~無条件の愛を悟った時~

おはようございます、satoです。

前回に続き、藤井聡太七段と渡辺明前棋聖が対局した棋聖戦の話です。
前回は主にこのタイトル戦で勝利し、新棋聖となった藤井七段の強さについて(その中にあった御言葉と合わせて)話しました。
その中で書いたように「同じ人に連敗することがあるのか」と思われるくらいの強さである、と思われます。
そもそも、負けることがあるのか?と将棋を詳しくない人なら思うような気もします。(実際、同居人は藤井棋聖が一番強いんじゃないの?と話していました)
しかし、たとえば現在藤井棋聖は将棋の二大タイトルと呼ばれる竜王と名人を持っている豊島将之竜王・名人にはまだ一勝もしていませんし、大橋貴洸六段には最近も負けており、負け越しています。
渡辺前棋聖ももちろん強いですし、現在タイトルを賭けて対戦中の木村一基王位は受けの達人です。

(その木村王位が優位に立ち、もはや勝ちか、と思われた王位戦第二戦@札幌で、この情勢を覆して藤井七段が勝利したのだから、藤井七段は相当に強いという話でもあります)

何より、今回の棋聖戦でも第三戦は渡辺前棋聖が状況と持ち時間をコントロールし、終始完璧な指し回しで勝利しました。

このように、藤井七段も負けることがあります。藤井聡太一強というわけではない、ということは一将棋ファンとして言いたいです。
(小学生時代にちょっと将棋を指していた程度。定石も囲みもよく知らないくらいには弱い)

で、ここからが私と神様の経緯の話です。

ところで、私は第二戦まではある程度情報を得ていましたが、この間ある御言葉をきっかけにそれまでのメディア中心だった生活を脱却すべく条件を立てていました。それで、第三戦以降は情報を見ず、人から情報を得たり、LINEニュースの情報だけで状況を見守っていました。

このメディア中心だった生活、今の私にしてみれば『暗黒期』でございまして、もちろん神様を信じなくなったとかそういうことではないのですが、信仰はほぼ死んでいた状態でした。
明け方はほぼ出れず、礼拝は守るけれど心が伴わず、という状況です。
基本的にはメディアは「信仰を守れる範囲で」と頭では思っていました(メディアによって悪くなったらメディアが悪者になってしまう、と思っていたし、良心的にも引っかかります。何よりも発信者は自分の生活を崩してまで見てほしいとは思っていないだろうと色々なVtuverの話を聞いて感じてました)
それでも、私は心が死んだまま生活をしていました。これはコロナの期間にそうなったというよりはここ2年位は続いていた状態でした。

そこで、ある御言葉が宣布され、その御言葉に感動を受けたある兄弟とどのメディアを切るのかを具体的に決めて条件を立てることにしました。
それ以来、少しずつですがお祈りもできるようになり、心の状態も回復していました。
傍から見たら仕事にも集中できるようになり、色々なことにも意欲的になったので「断然良くなった」と思われているのだと思います。

ただ、この頃の私はそれまで「楽しかった」メディアを切ったことに多少なりか不満がありました。
それで、まだ「嬉しい」という気持ちが沸かない、ということを正直に打ち明けました。その際に私が話したことが、

『私は私が許せない、ずっと怒っている』

でした。
自分がこれまで生活していた中で犯した罪、自分が気をつけてさえいれば犯さなかったのに、それを犯したことに対する神様や様々にお世話になった人に対する申し訳無さ、見捨てられるかもしれないという恐怖、それらがない混ぜになって深い怒りと自分に対する恨みになっていたのです。

このことを条件を立てていた兄弟に対して話したあと、その感情をしばし吐露していました。
その中で思ったことが

『神様はどうしてこんな私を愛せるのだろうか?』

ということでした。

神様は愛している、というのは知っていましたし、それは信じていました。主に対しても同様です。
しかし、それでも「私に対して嫌な気持ちはないのだろうか」とは思っていました。そういう気持ちがある人に対して、私は結構避けることが多かったのですが。

それで、神様に言いました。

『どうやって、こんな私を愛せるのですか?』

そうしたら、神様の愛の心情が、鋭敏に伝わりました。

言葉にするには難しい、ただ「おじいちゃんが孫が何をしても良くしてくれる」というある兄弟の話を聞いた、その感覚。
同時に愛するのに、私が罪を犯すことに対する辛さ。
様々なものが混ざった、でも、それでも私を無条件に愛する、その愛が「体感」できました。

その風景は、澄み渡った青空と草原のようでした。

そのような愛を受けて、私は。

ただひたすら泣きました。このような愛が、どこにあるのか、と。

そのような愛を受けて、私はなぜかこう祈りました。

『藤井聡太七段を、負かしてください』

と、祈った、というより言葉がポロッと出た感じでした。

まず言っておきたいのは、これは私の考えにはないことでした。
確かに渡辺前棋聖も強いし、このまま藤井聡太七段が勝ち続けるのはつまらないなという考え自体はありましたが、どちらかといえば勝ってほしかったですし。
ただ、その時私が感じていたのは

『彼がこのまま勝ってしまえば、残念に思うのではないか』

ということでした。彼が壁にぶつかればもっと成長する、そんなことを私は神様に話していた気がします。
ただ、これも後に分かった彼の姿勢を思えば筋違いでしたが。

ただ、この祈り自体は「私の底から出た祈り」であると思いました。確かに神様に通じた感覚はありました。

だから、藤井聡太七段が棋聖戦第三戦で負けたと分かって私が思ったのは、「確かに私の祈りを神様が聞かれた」ということでした。

私にとって、あの一戦の結果は『神様の無条件の愛を悟った』経緯、「私が感じた無条件の愛を忘れない」ための象徴となったのです。

…ただ、このまま負けてしまってタイトルを取れなかったらそれは本当に嫌だったので、その後は勝てるようにお祈りしました。
それが、第四戦でお祈りをした理由です。…本当に勝って良かったです(^_^;)

繰り返しになりますが、今の藤井聡太棋聖はかなり強いです。トップレベルになっています。
だからこそ、その藤井棋聖が負けたあの試合に、(そして、その後の試合でも)私は神様を感じたのでした。

最後に、これは余談です。

藤井棋聖のことを改めて調べてみると「将棋の世界に入り浸る」という表現が多くありますが、この感覚は数学者にも共通のことと言えます。
特に、天才と呼ばれる数学者は

「朝起きた時に,きょうも一日数学をやるぞと思ってるようでは,とてもものにならない。数学を考えながら,いつのまにか眠り,朝,目が覚めたときは既に数学の世界に入っていなければならない。どの位,数学に浸っているかが,勝負の分かれ目だ。数学は自分の命を削ってやるようなものなのだ」-佐藤幹夫(D加群や超局所解析のアイデアを生んだ数学者)

と話していますし、ラマヌジャンみたいに夢で公式を見出した人もいます。それくらい数学と共にあった、ということです。

そのような天才たちに及ぶべくもないですが、私もメディアをオフモードにする中で数学の中に入り浸る感覚を取り戻しつつあります。
そして、これがさらに深まり、しばらくやめていたあることを再開する機会になりました。

私の力の一つ、物語の観測をすること。

そして、環境を変えたことによって得られたもう一つの計画。

その時は、もう少しなのかな、と思います。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。