摂理は本当に『異端』なのか?~キリスト教における正統との比較~

おはようございます、satoです。
本日は「摂理は『異端』だ」という話について、キリスト教における『正統』と比較しながら考察してみたいと思います。

まえがき

摂理について調べると、よく

「摂理は『異端』である」

という表現が出てきます。
果たして、これは本当に正しいのでしょうか?

今日はこれについて考察していきたいと思うのですが、その前にこの記事を見ている皆さんに質問をしたいと思います。

Q. あなたは摂理が『異端』だと思いますか?

この記事を見ている多くの方は、摂理が異端かどうかを気にして調べている中で来られたのだと思います。
そして、その中でも大きく2つに分かれると考えます。

1. 摂理が異端かどうかわからないけど、どうしても不安に思って見ている

2. 摂理は異端であると思っている

これから私は色々な事実を挙げながら考察していきますが、この問題は最終的に『どのように結論づけたいか』によって自分の中での結論は変わってしまうと考えます。

私は摂理の人なので「摂理は異端とは言えない」という方向でこれから話をしていきますが、私もできる限り主観的、感情的な面は書かず、より客観的な内容にできるよう心がけます。
なので、(特に後者の人は)一旦「異端である」という結論を忘れて、フラットな視点で読んでほしいなと思います。

(9/26:『異端』と『カルト』の項の一部表記を変更しました。「信条」の項にて、根拠となると思われる聖句を追加しました)

前提:『異端』とは

まず、「摂理は『異端』である」という主張を見て、最初に考えたいのは

そもそも、『異端』とはなにか?

ということです。

異端、という言葉は宗教だけでなく一般生活でも出てきます。よくあるのが『異端児』という言葉です。
これは「大多数とは大きくかけ離れた存在」を指して使われます。

たとえば、芸術の分野では覆面芸術家のバンクシーが異端児と言われています。
一般に芸術家と言えば絵や彫刻などの作品を作っていくものと思われるのですが、彼(ら?)は絵、ペイントとパフォーマンスを合わせて一つの作品としています。たとえば、自分の作品をオークションに出して、落札直後に額縁に仕掛けられたシュレッダーで裁断してしまう、というようなパフォーマンスがありましたが、これはかなり話題になりました。
そのスタイルが既存の芸術家と異なるために『異端児』とされています。

また、数学とかだとラマヌジャンが異端児と言われている、ような気がします。
当時の数学は数学の問題を証明することがメインとなっているのですが、その中でラマヌジャンは無数の計算から多くの公式を生み出した(が、証明はしていない)、というスタイルの異なる数学をしています。
加えて、その多くの公式から現代数学でも最先端の定理が発見されるなど、その深さも有名です。

一方で、宗教における『異端』とは

「『正統』とは異なる信仰を持つもの」

とされています。この意味からも分かるように、『異端』とは『正統』の対極にあるものであり、『正統』という軸があるから成り立つ言葉であります。

摂理は聖書を中心に信仰を持っているので、キリスト教に含まれますが、その中でも『異端』と言われています。これは『キリスト教における正統』からかけ離れていると考えられているから、とされています。

キリスト教が『異端』に対して強く排除していくのには色々な理由がありますが、特に次の聖句が根拠となっています。

24:4そこでイエスは答えて言われた、「人に惑わされないように気をつけなさい。 24:5多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。

マタイによる福音書24章4-5節

24:23そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また、『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。 24:24にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。 24:25見よ、あなたがたに前もって言っておく。

マタイによる福音書24章23-25節

キリスト教は救い主であるイエス・キリストの再臨を強く信じ、これを信仰の中心としていますが、これに対して『イエス様の教えとは異なる、にせキリスト』が現れる、これに騙されないように気をつけて信仰を持ちなさい、と話しています。

ところで、キリスト教は何を持って『キリスト』と『にせキリスト』を分別しているのでしょうか?
その根拠が『正統』と呼ばれているものですが、今日はこの視点から摂理の御言葉を考察をしていきたいと思います。

余談:『異端』と『カルト』

脱線しますが、異端であると聞いて不安に思うのは

「『異端』は危険な『カルト宗教』である」

と多くの人が考えるからです。ここでいうカルトとは『反社会的行動をさせるような宗教』のことを指します。
詳細なカルトの定義と摂理がカルトかどうかについては、詳しくはこちらをご覧ください。

『キリスト教福音宣教会はカルトなのか?4つの観点から考察してみた』~こころの心理~

(私も別の観点で摂理がカルトであるかどうかについて検討をしようと考えております)

一方で、先程書いたように、『異端』とはあくまで『正統』からかけ離れたものであって、『カルト』であるかどうかとは無関係です。
意図的かはわかりませんが、既存の宗教とは異なる新しい宗教に対して、『カルト』という使い方をする人が(特に『破壊的カルト』に対応する人の中で)多いように感じられますが、新しい宗教が全て社会的に危険な『カルト』であるとは限りませんし、『異端』とされる全てが『カルト』でもありません。この点は注意してください。

本論:キリスト教における『正統』とは

以上の話を踏まえて、キリスト教における『正統』の定義について挙げていきたい…ところですが、現在のキリスト教は多くの宗派が存在する上に各宗派が『正統』を主張しています。
そのため、どの立場でこの議論をするかによって結論は変わってしまいかねません。

そこで、今回はキリスト教の『正統』がどの要素からなるのかを抽出し、一つ一つを摂理の教理と当てはめる、という方針で検証を進めていきます。

キリスト教の『正統』の要素

キリスト教の『正統』を調べると、以下が書かれています。

正しい教義として公認された教説及びその一派。異端に対して言う。キリスト教では325年のニケーア公会議で三位一体説のアタナシウス派が正統とされ、教皇を頂点としたローマ=カトリック教会の権威が形成された。
世界史の窓『正統』

  1. 一連の公会議、特に第2コンスタンティノポリス公会議までの古代の7つの世界公会議によって決定された教説に基づく教義、特に4~5世紀の古カトリック教会時代に生み出された信条(使徒信条、ニケヤ信条、アタナシウス信条など)に告白されている教義のこと。正統主義は、その教義に立つ立場のことである。
  2. 上からの派生で上記教理を継承すると自認する教会のこと。正統派。よく用いられる例としては次のものがある。(中略)
    • プロテスタントのうち、宗教改革の教理と、リバイバルの信仰を受け継ぐ聖書信仰(福音派と聖霊派)の教会。近代聖書批評学と自由主義神学により、キリスト教の本質とされる聖書の教理を捨て、ローマ・カトリック教会とエキュメニカル運動を行い、異教との行き過ぎた対話により混合宗教化する、リベラル派、エキュメニカル派プロテスタントに対して、旧来の福音主義信仰を持つ教派を指す概念。

Wikipedia『正統教義』(20210701閲覧)

今回は『正統』の根拠とされている
・使徒信条、ニカイア(ニケヤ)信条、アタナシウス信条
・聖書信仰
から、摂理を見てみます。

信条の分析

まず、使徒信条などを見てみます。

天地の創造主、全能の父である神を信じます。
父のひとり子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。
主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、
十字架につけられて死に、葬られ、陰府(よみ)に下り、三日目に死者のうちから復活し、
天に昇って、全能の父である神の右の座に着き、生者(せいしゃ)と死者を裁くために来られます。
聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、
永遠のいのちを信じます。
アーメン。

使徒信条 カトリック中央協議会

まずは、使徒信条です。ここに書かれていることは「創造主、全能な神様」「父のひとり子である主イエス・キリスト」「聖霊」を認めること、また、「聖なる普遍の教会、聖徒の交わり」「復活と永遠の命」「罪の許し」を信じる、と書かれています。
イエス・キリストについての表記がかなり多くありますが、これを分けますと
・聖霊によって、マリアから生まれた
・ピラトのもとで苦しみを受けた
・十字架で亡くなった
・復活した
・昇天した
・裁きのために来られる
ことを信じるとあります。多少の不正確さを承知で考察しますと

「聖霊によって~」は文字通り聖霊によって生まれたということ、

ピラトのもとで苦しみを受け、十字架に架けられた、というのは歴史に記録されていること、

復活、昇天したことは聖書に書かれていることを信じること、

そして、「裁きのために来られる」は「再び来られる」ことを信じること

に分けられます。

次に「ニカイア信条」ですが、こちらは

私たちは、唯一の神、全能の父、天と地、見えるもの、見えないもの、すべての創造者を信じます。

私たちは、唯一の主、神のひとり子、イエス・キリストを信じます。
主は、あらゆる代々にさきだって父より生まれた方、光よりの光、まことの神よりのまことの神、
造られずして生まれ、父と本質において同じです。主によってすべては造られました。
主は、私たち人類のため、また私たちの救いのため天から下り、聖霊と処女マリヤによって受肉し、人となり、
私たちの身代わりとしてポンテオ・ピラトのもとで十字架につけられ、苦しみを受け、葬られ、
三日目に聖書にしたがってよみがえり、天にのぼり、父の右に座り、
生きている者と死んでいる者とを審くために栄光をもって再び来られます。彼の御国には、終わりがありません。

私たちは、聖霊を信じます。
聖霊は主、命を与える方、父と子より出で、父と子とともに礼拝され、ともに栄光を受け、
預言者を通して語られます。

私たちは、唯一の聖なる公同の使徒的教会を信じます。
私たちは、罪の赦しのための唯一のバプテスマを告白します。
私たちは、死者の復活と来たるべき世の命を待ち望みます。
アーメン-

ニカイア信条-biside-church-Tokyo

使徒信条と比べると「神様」「イエス・キリスト」「聖霊」についての記述が増えていることが分かります。
神様については「唯一の神、全能なる父、創造主」と唯一の神であることが追記されています。
イエス・キリストについては「本質は父(神様)と同じ」「救いのために地上に下り、受肉した」というところが追加ですね。再び来られることについても明記されています。
聖霊については具体的に「命を与える方」「父と子(イエス・キリスト)とともに礼拝され、栄光を受ける」「預言者を通して語られる」と説明されています。
また、最後の方ももう少し詳しくなっていて「唯一の聖なる公同の使徒的教会」「罪の許しのためのバプテスマ(洗礼)」と分かりやすくなっているという印象です。

ニカイア信条は最初に引用した『世界史の窓』で出ていたニカイア公会議で決められた信条ですが、この時の核心部分が「三位一体(特にイエス・キリスト)に対して、どのように解釈するか」なのです。
具体的には、当時広く伝えられていた説として「イエス様は神様に作られた人間であって、神性はない(あっても、それは神様の養子であるから)」というアリウス派と「イエス様は神様と同等である」という主流派がありました。イエス様の神性を否定する(正確には、否定していないが、イエス様が被造物であるとする)

異端として認定される一つの要素がこの「信条」に沿っているのか、特に「三位一体」を否定していないか、です。
異端として認定される一つの例が「イエス様がメシアであることを否定する」などというようなイエス様の否定です。また、聖霊が存在しない、という聖霊の否定もこれに該当します。

以下にあるように、この辺りについては聖書にも書かれているので、聖書の表記と矛盾しません。

(聖三位について、イエス様がキリストであることについて)

偽り者とは、だれであるか。イエスのキリストであることを否定する者ではないか。父と御子とを否定する者は、反キリストである。御子を否定する者は父を持たず、御子を告白する者は、また父をも持つのである。

ヨハネの第一の手紙2章22-23節

(イエス様が肉体を持って地上に来られたことについて)

あなたがたは、こうして神の霊を知るのである。すなわち、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白する霊は、すべて神から出ているものであり、イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない。これは、反キリストの霊である。あなたがたは、それが来るとかねて聞いていたが、今やすでに世にきている。

ヨハネの第一の手紙4章2-3節

なぜなら、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白しないで人を惑わす者が、多 く世にはいってきたからである。そういう者は、惑わす者であり、反キリストである。

ヨハネの第二の手紙1章7節

(聖霊について)

だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。

マタイによる福音書12章31-32節

それでは、この点で摂理の御言葉を見てみます。摂理では

・父である神様が天地創造を成された創造主であることを信じています。

・神様が唯一の神であることを信じています。

・御子であるイエス様がキリストであることをはっきりと信じています。

・イエス様が神様と同等の方であることを信じています。

・同時にイエス様がマリアより生まれた人間であることを信じています。

・御子であるイエス様が昇天し、再び来られることを信じています。

・聖霊が神様と御子イエス様と同等であることを信じています。

・聖霊の働きを信じています。

・特に、聖霊が御言葉を通して働かれることを信じています。

このように、信条に書かれていることとは反するような信仰は一切ないことを保障します。
摂理にいて10年以上経ちますが、神様が全能者であること、イエス様がメシアであること、聖霊の働きについて、これらを否定する御言葉は一度も宣布されませんでした。
特に、我々が信じている対象は聖書に書かれている神様であり、この点はキリスト教と同一であります。

聖書について

次に、『聖書信仰』について考察したいと思います。

まず、『聖書信仰』というのは、簡単に言うと聖書に書かれていることが全て正しいということを意味しています。

聖書信仰(せいしょしんこう)とは、キリスト教神学において、聖書を誤りない神のことばと信じる信仰、および、これを信じるクリスチャン、キリスト教会、教派を表す用語である。

聖書信仰-Wikipedia

詳しく書くと、旧約聖書と新約聖書合わせて66巻は神様の啓示によって書かれたものであって、その内容には間違いがない、ということです。逆に言うと、現在書かれている聖書が間違っているとか、聖書以外の教典を使っているところは異端とされるわけです。

さて、摂理ではどうかというと、摂理で御言葉の基準となっているのは全て上に書かれている66巻です。66巻の御言葉を根拠として、鄭明析先生が実践されてきたことを話しているのが摂理における御言葉となります。
そして、次の聖句を基に、聖書が全て神様が人を通して書かれたものであり、書かれている内容は全て現実に成された、ということを信じています。

3:16聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。

テモテへの第二の手紙3章16節

さて、こういうことを書くと、聖書には科学的な事実と矛盾していることが書かれているのに、それが現実に成されているのか、という批判が出ます。
この『聖書に書かれている事実がどこまで適用できうるのか』というのが十全霊感とか部分霊感とか呼ばれるものです。十全霊感は『科学や歴史に置いても聖書に書かれていることが正しい』ということであり、部分霊感は『救いについての内容だけが正しい』ということです。

また、聖書に書かれている文章はどこまで神様の霊感で書かれたのか、という視点もあります。
『聖書の思想に神様の霊感が働いている』というのが思想霊感、『聖書の文言にも神様の霊感が働いている』というのが言語霊感です。
正統派、特に聖書信仰を持つ教派は『十全霊感、言語霊感』の立場であります。

では、摂理ではどうなのか、というと…これは個人の見解ですが『十全霊感と言語霊感』の立場であると見ています。
『では、科学的な事実と矛盾していることについてはどのように説明するのか』というと、次の聖句がヒントになります。

13:34イエスはこれらのことをすべて、譬で群衆に語られた。譬によらないでは何事も彼らに語られなかった。 13:35これは預言者によって言われたことが、成就するためである、「わたしは口を開いて譬を語り、
世の初めから隠されていることを語り出そう」。

マタイによる福音書13章34-35節

摂理では、聖書に書かれている多くのことが比喩であるということを教えています。具体的には、次の動画を見ていただけると分かりやすいかと思います。

また、次のようにも書かれています。

16:25わたしはこれらのことを比喩で話したが、もはや比喩では話さないで、あからさまに、父のことをあなたがたに話してきかせる時が来るであろう。

ヨハネによる福音書16章25節

この聖句にもあるように、神様は時になればあからさまに、比喩を使わずに話すともあります。

この『聖書は比喩で書かれている』というのは『言語十全霊感』と整合しています。というのも、

聖書が比喩で書かれているから、科学的に矛盾しているように書かれていることも(比喩を理解すれば)現実に成されている事実と合致するから『十全霊感』を満たしていますし、

『神様が比喩で書こうとしている』から、神様の霊感を受けた人が書いている聖書の言語も比喩で書かれている

と説明できるのです。

まとめ

以上、今回は信条と聖書信仰の視点から摂理の御言葉を(大雑把にですが)検討してみました。
細かいことを書くと『三位一体とはどういうものか』とか『神様の霊感はどこまでに及んでいるのか』とか『聖書に書かれたことは現実に成されている、というが、明らかに科学的におかしいところがある』とか、各教派で解釈が分かれているところはあります。
しかし、『神様、聖霊、御子イエス様の三位一体が信仰の対象である』ということと『聖書は神様によって書かれたものである』ということについては大部分の教派が信じているところと思います。
そして、この2つを基準とした時、摂理の信仰はこの基準を満たしていると言って良いでしょう。
なので、摂理で御言葉を学んでいる人は安心していいです。

摂理の御言葉を聞いている途中で「何か違和感がある」と感じる人もいるかもしれません。
ですが、摂理の御言葉を最後まで学ぶと、この違和感も解けて、しっかりと納得できるものになります。これは私自身もそうでした。なので、もし御言葉を学んでいる方がこの記事を読んでいたら、ぜひ最後まで御言葉を聞いてみてほしい、というのが私の願いです。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。