数学と自分と向き合うことは無関係ではない。

こんばんは、satoです。
ここ最近、noteで色々見ていたのですが

なぜ、数学が必要なのか。|hatocok|note(ノート)https://note.mu/hatocok/n/n4120e841757f

これを見て、ふと私も「同じことしてる」と思いました。確かに、私も「自分がどうしてこういう考えになっているのか」を考えて自分の感情と向き合っていました。
以前「satoは常に自分と向き合っている」とか「正直だ」と話してくださった方もいました。
これを「数式」と表現したこの方のセンスは私好きです(人´ з`*)♪

でも、私は「数学をしてるからこの考え方が身に付いた」というわけではありません。もちろん、一つ一つのことに向き合うとかが好きな傾向はありましたが。むしろ

「信仰生活で大きな壁にぶつかったときに、『自分がどうしてこの感情を持ったのか』を深く考えるようになったから、数学ができるようになった」

と私は思ってます。
私は摂理に来てから3年経った頃、とっても大きな壁にぶつかりました。自分の中で切れない感情が出てきたのです。
そのことで当惑した私は、どうして私がこのような考えを持ったのか、理由を探し始めました。色々な可能性を考えながら、あれこれ当てはめてみて…正直大変でした(-_-;)

しかし、こうすることで自分のことを理解するようになったんですよね。
そのときに「フェルマーの最終定理の証明と同じようなことを私はしているんだ」という悟りが来ました。つまり、自分がとうしてこのような考えを持つようになったのか、それを理論的に突き詰めることで理解するということが、数学の証明と重なったのです。

それから、数学を考える際にも同じようなことが目に留まりました。
「どうして、この数式はこのように定義されているのか?」
「この定理の仮定は定義でどう書けるのか?」
「証明をどうやって見つけたのか?」
など、そういうことを一つ一つ考えるうちに数学の実力が上がってきました。

だから、私は「摂理に来たから数学の次元が上がった」ということができます。
数学と正直さは全く無関係ではないのです。
神様に与えられたこのタラントを活かして、もっと磨きをかけていきたいです。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。