おはようございます。satoです。
本日はクリスマス、ということでイエス様の生誕をお祝いする1日でした。
今年は仕事もあったのですが、夜の礼拝も無事に捧げて御言葉を通してイエス様が地上に来られた奇跡を改めて噛み締めておりました。
ところで、イエス様がメシアだと一番早く気づいたのは、ヨハネによる福音書4章に出てくるサマリヤの女でした。
4:25女はイエスに言った、「わたしは、キリストと呼ばれるメシヤがこられることを知っています。そのかたがこられたならば、わたしたちに、いっさいのことを知らせて下さるでしょう」。 4:26イエスは女に言われた、「あなたと話をしているこのわたしが、それである」。
4:27そのとき、弟子たちが帰って来て、イエスがひとりの女と話しておられるのを見て不思議に思ったが、しかし、「何を求めておられますか」とも、「何を彼女と話しておられるのですか」とも、尋ねる者はひとりもなかった。 4:28この女は水がめをそのままそこに置いて町に行き、人々に言った、 4:29「わたしのしたことを何もかも、言いあてた人がいます。さあ、見にきてごらんなさい。もしかしたら、この人がキリストかも知れません」。
口語訳聖書 ヨハネによる福音書4章25−29節
このサマリヤの女に初め「水を飲ませてほしい」とイエス様が声を掛けられ、サマリヤの女は「どうしてユダヤ人のあなたが?」と疑問に思います。
それは当時ユダヤ人とサマリヤの人は交流をしていなかったからです。この背景には、バビロン捕囚から解放された際に「ユダヤ人の血統を重視する」方針があったのと、ガリラヤに住む人はアッスリヤ捕囚の際に色々な国の人が住んだことでその血統がわからなくなったことがあります。「どこから生まれたのかわからない」ガリラヤの人たちを「血統を重視したい」ユダヤ人が避けたわけですね。
17:24かくてアッスリヤの王はバビロン、クタ、アワ、ハマテおよびセパルワイムから人々をつれてきて、これをイスラエルの人々の代りにサマリヤの町々におらせたので、その人々はサマリヤを領有して、その町々に住んだ。
口語訳聖書 列王記下17章24節
その後、心から求めるものがあることを見抜いたイエス様が彼女の持っている疑問と悩みを全て解き明かします。本当の愛を求めていることを「夫の遍歴」を通して見抜き、必要なことを教えています。そうして「メシアなら私の全ての疑問を解いてくださる」と考えていたサマリヤの女が「私がそれである」というイエス様の言葉を聞いて「この方がメシアだ」と悟り村の人たちを呼びあつめるに至ったわけです。
これについて、次の御言葉があります。
平素サマリヤの女の人は、メシヤが来たらすべてのことを胸がすっきりするように解いてくれるという主観を持って生きていました。イエス様が解いてくれたので、早速分かりました。
2023年12月17日主日の御言葉
「1.神様も行なってこそ成される ましてや人間はどうだろうか
2.主を知らなければ苦痛だ 平和が壊れ、争いだ」より
この「メシアが来たら全てのことを解いてくださる」という考えは彼女が平素からずっと考えていたものでした。だからこそ、イエス様が全て疑問を解いたことで「メシアだ!」とすぐに確信したのです。
このように「自分の中の基準がはっきりしていて、かつそれが正しいものであれば」イエス様を見ることでメシアであると悟るようになります。ただし、基準ははっきりしていても「それが現実離れしたもの」だったり「間違っていた」ものである場合はむしろイエス様を迎えることができなくなります。その際たる例が「神様が直接雲に乗って来られる」と認識していた律法学者たちです。
ところで、この話を聞きながら改めて「自分にとってのメシアとはどんなものだっただろうか?」と考えるようになりました。
キリスト教の信仰を持っていなかったので、当然メシアのことを知らない…と言いたいところですが、実は言葉自体は認識していましたし、自分の中でのメシアとは何かを考えていました。
それはさまざまな漫画でイエス様を題材にしていたこともありますし、メシアという単語だけ使ったタイトルの漫画もあったからなのですが、一番は自分自身が「救い」の物語を考えていたことが大きいです。
その主人公は色々な経緯を経て、絶対救済という能力を得てあらゆる悪から世界を救う…という感じの物語でした。
そしてその人は炎を持って、その人の罪を焼き払い、悪から救い出すのでした。
聖書を勉強していて「炎が御言葉の比喩である」という話を聞いたときに自分のこの物語と一致していて興奮していたのを思い出します(一方、伝えていた方はその光景を見て困惑していたとか笑)
この「悪なる人の行いを受け止め、その罪の根源をなくして解放してくれる」というのが私の中のメシア像でした。
衝動性が強く、人と相容れない(仲良くしたいのだけどどうしてもうまくできない)当時の私にとって「自分の中の悪を受け止め、自分の心の衝動を全て受け止めて、そこから解放してくれる」存在を探し求めていました。
鄭明析先生の御言葉と行い、全ての人たちの話と行いを聞いて、それを受け止め、その上でダメなところはダメと言ってより良くできるように力を与えてくださる…その姿と御言葉に私はイエス様を見ました。
そして、信仰生活においても自分の心の衝動…言い換えると熱を全て受け止めてくださり、時にはそれを叶えてくださり、時にはそれを持ってより良い方向に生かしてくださるのを感じます。まさにこれが私の求めていたものでした。
かつての私に比べて、今の私は段々と自分をコントロールできるようになりつつあるのは、このようなイエス様の愛があったからに他なりません。このことに心から感謝します。
私がうまくいかない思春期の頃からずっと求めていたメシアに出会えたことに心から感謝します。永遠までついていきます。
この記事を書いたブロガー
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「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。
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