観測者でありたい自分と、人でありたい自分

おはようございます、satoです。
これは自分が自分を振り返ってきた時に気づいた話です。

指導者とお話をする中で、自分が幼少の頃から漫画やアニメ、ゲームなどのメディアに触れていたという話をしていました。
改めて振り返ると、たしかに私が家にいたときずっと(当時はテレビが中心でしたが)、何かをじっと見ていることが多かったなぁと思います。

それが今も続いていて、仕事とかで何かをしている時以外は必ずと言っていいほど「じっと見ている」ことが多いなぁと思いました。
で、指導者とお話した結果、一旦メディアを切ってみることにしたのです。それで、頭が回って研究が進んで、今まで気になったことを考えるようになったのです。

その中で、自分が気づいたのが「自分が主体であることを避ける理由の一端が、この幼少期の経験から来ているのでは?」ということです。
私は基本的に何かを見ることで物事を記憶しています。逆に見たこと以外での記憶はあまりないです。
それはおそらく「長いこと漫画を見てきた」ことで視覚が強くなり、「物事をじっと観測し続ける」自分が形成されたからなのかなと思います。すなわち情報を得ることに特化した自分、観測者としての自分です。
この観測者としての自分の傾向は…

とにかく情報の収集がしたい。すべての目的は、あらゆる情報を収集すること。
新しい情報は常に取り入れ、整理して、整理しておきたい。法則・システムを知りたい。
それ以外のものは重視しない。

何よりの特徴が自分という感覚がかなり希薄であるということです。主体は観測している物語であり、そこにいる人物たち。自分はあくまでその物語を観測し、介入することなく物語を進めるだけの存在。それが「観測者としての自分」です。

摂理に来たときも「御言葉を記録する」「世界の法則を知る」「この歴史を観測する」という観測者としての自分が原存在としてありました。

一方で、このような機械的な自分とは別に、人間としての自分もまた存在していました。当たり前ですが、人間だから揺れもするし、願望もある。感情も存在しています。しかし、観測者としての自分が強かった頃はこの自分を理解できず、「自分は決まったとおりに行える」と無条件に信じ込んでいました。

摂理の御言葉は「自分が主体となって神様を愛する」ことを願われて伝えられています。この御言葉を聞き、神様の愛に触れることによって段々と「人間としての自分」が出てくるようになりました。感情を持ち、自分の意志を持ち、自分の思いどおりにならない自分が。

最近になって、ようやく自分が思った以上に賢くなく、自分が思った以上に弱い人間なのだと自覚するようになりました。
今まで「人と比べて弱い」という認識はありましたが、そうでなく「自分が思っているより思い通りにならない」という認識が芽生えたのです。よくよく考えると私が見てきた漫画の世界(創作の世界)は大体が自分の思ったとおりに行動し、発言し、生きている(それが善であれ悪であれ)ので、自分もそうなのだろうと思っていたのでしょう。

実は今日も早速自分が決めたことなのに、「なんとかできんかね…」と思うくらい揺れることがありました。幸いなことにこういうことを話せる人がいたので、その方にその心情をそのままお話ししたことで、整理することができました。
「弱い自分」を認めて、助けてもらえる。そういう環境に感謝したいと思います。

おそらくブログを書いている自分は「観測者としての自分」なんだと思います。でも、そこには「感情を出したい、自分を知ってもらいたい」人間としての自分がいる。だからちぐはぐで、面白いんだろうな、と思った次第です。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。