凸凹であってこそ、動く作品になる。

おはようございます、satoです。

ある日摂理の水曜礼拝で伝えられた御言葉でとても感動した言葉がありました。
感動を受けたのはこのフレーズでした。

山の岩の道を行く時、道が狭くなったり広くなったり、人間のように楕円形になっていて、体が横の岩に擦れるようにしてやっと通過するとか、這って入っていくとか、体が大きい人は入れなくて泣きべそをかいて服を脱いでやっと入っていって、また広いところから出てきて、そこにわき道があってそちらの方に行って戻ってくるところもあってこそ、スリルがあります。
ずっと先が見えるトンネルのようになっていて、まっしぐらに通過するなら、退屈で面白くありません。-

2016年1月6日水曜礼拝の御言葉『分かって聖三位に栄光を帰しなさい』より

この話を聞いて、感動したのは私自身を表していると思ったからです。

発達障害傾向を持つ私は色々できるところとできないところがはっきりしています。
私の場合は(だいぶ克服できたとはいえ)失敗、特に「人間関係における失敗」-人を困らせる、怒らせる、悲しませる-ということがあるとフリーズを起こし、その後の言葉・諫言が入らなくなったり、人と合わせるのが極端に苦手(だけど人と一緒にいるのが好き)という傾向があります。

こういう凸凹がある私にとって、この御言葉がとても感動でした。
自分はどうしてもできないところ、不得手なところ(人のことを考えることが苦手)がありますが、それを克服しながら、できるところがたくさんある私という存在を肯定してくれるようだったからです。本当に愛の御言葉でした。

ただ、不得手なところがあるからと言って、それをそのままにするのは良くないと思います。(これは私に向けてです)
こういった私の弱点・短所を克服する、そして新たなステージに向かうべく挑戦すること。
自己中心的なところが多い私、でもそのことを分かって一つ一つ直していきたいです。

それと関連して

さまざまに万遍なく備えてこそ「よい作品」です。

2016年1月6日水曜礼拝の御言葉『分かって聖三位に栄光を帰しなさい』より

以前だったら、「そんな風にならなくても…」と思っていたこういう御言葉が、「こういう人になれるように頑張ってみよう…」と思えるようになったのが驚きでした。自分の価値を回復できてきたから、こういう御言葉を受け入れ、自分もそうなりたいと心から思えるんだな、と思って、聖三位に感謝しました。

少しずつ変化している私。それを感じる時間でした。
このように少しずつ聖三位に似た精神に作ってくださる摂理の御言葉が本当にすごいな、と思います。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。