初めて摂理の礼拝に来たときのことを振り返る

こんばんは、satoです。
摂理に来てから、毎週のように捧げる礼拝。もう習慣となっています。
まぁ、神様に向かう心は常に新たにしないといけませんが…

でも、よくよく考えると日本では珍しく見えるのかもしれません、礼拝って。
私が初めて礼拝に来たときのことを思い出すと、確かに自分もよくわかっていなかったような気がします。でも、御言葉を教えてくれた先輩が「神様の御言葉を聞く大切な日だから、しっかりした服装で…」といってくれていた気がします。
これはあとから聞いた話ですが、私が初めて礼拝に出る日についてその人が祈ってくれていたみたいです。
神様が御言葉を通して自分が礼拝に出る許可を出したんだって、別の人が話してくれました。

それで、服装を整えて礼拝に行きました。
途中で私に会った友人(この人も摂理の兄弟)は「すごくスッキリした笑顔」だって言ってました。私にはまったくわかりませんでしたが。私は「自分について認識する」のがとても苦手だった…これは今もそうですね。

礼拝に参加して、祈りながら待ってて、賛美して、御言葉。
正直言って、御言葉の内容はほとんど入っていませんでした。
(長時間の話を聞くだけの集中力がなかったことと、耳からの情報を脳内で可視化していたために話に追い付けなかったため)
それでも、「私をみんなが歓迎してくれている」という雰囲気を感じ取って、とても嬉しかったことを思い出します。今にして思えば、それは聖三位が私を愛で迎えてくださったことを感じ取っていたのでしょう。

あれからもう大分経ち、あのときより集中して祈れるようになり、神様のことも昔よりよくわかるようになりました。御言葉も昔より頭に残るようになり、実践は…もっと頑張ります。賛美も心からできるようになりました。
そして、神様は今日も変わらず、もっと昔より愛して私を迎えてくださいます。

昔と変わらず、私は神様から見てとても足りない存在です。
それでも、私の成長を喜び、愛して御言葉をくださる。そのことが成されることが奇跡だなって感じます。
摂理に来て、水曜にも礼拝があるってことに衝撃を受けた私ですが、こういう喜びを味わえるようにしてくださったことに感謝です。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。