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私がカルトだって言われてる摂理に来た理由(わけ)。

今日のチョウン牧師の御言葉で「どうして摂理に来たのですか?」という質問があったので、少し考えてみました。
私が当初摂理に来たわけ、それは「苦痛から逃げたかった」からでした。
とにかく人生生きていて、苦痛ばかりだった。人から何か言われることも苦痛で、自分の姿勢を矯正することも苦痛。練習することも勉強することも、とにかく嫌。ただ、ゲームとかマンガは苦痛でなかった。私に苦痛を与えなかった。だから、マンガに没頭していた。これは小説でも同様。
しかし、それだけでは生きられない。だって退屈なんだもん。だから、どこかのコミュニティには所属したいけど、できるなら苦痛が少ないところがいい。摂理はカルトだって言われてるけど、人は優しく、楽しかった。つまり、苦痛が少なかった。だから、摂理にいたのです。
それに、御言葉を聞くのは楽しいし、解ける感じが好きだった。
楽しいから、摂理にいる。それが私のスタンスだった。したがって、歴史とか創造目的とかは正直負担だった。楽しむには重すぎたから。
でも。
このスタンスとは相反する要素が摂理にはある。それは御言葉だ。
「あなたの悪い性格を直しなさい」
「御子を100回呼びなさい」
「御子の前に立つときの姿勢をただしなさい」等、私が苦痛だと感じることのオンパレード。
そう、摂理は「苦痛からの逃避のため」の場所ではない。むしろ、「苦痛と立ち向かわせる」ことが多い。そうして自分を磨くためだ。何のために?「神様の愛の対象体」にするために、だ。
ただし、ただ「苦痛から逃げるな!」というのではない。ちゃんと自分の考えを解いて、納得させるし、うまくできるように方法を教えてくださる。ただ「やれ!」というのではなく、ちゃんと見守り、感動も与え、やりたくさせる。
私は摂理以外に大学のサークルにも入ってた。そこは自分と同じ趣味の人もたくさんいて、一緒に色々やって楽しかった。正直、摂理に比べると遥かに楽で、楽しかった。
そう、「楽しかった」。かつては。
私にしてみれば不思議なことだが、私は摂理の御言葉を聞いて「自分にとって喜びだったサークル」を切って「自分にとって苦痛だった摂理」を選んだ。
もっと不思議なことだが、当時「自分にとって楽しみだったマンガ・ゲーム」を止めて、「自分にとって苦痛だった祈り」を選択した。そうやって摂理に投資しているうち、気がついたら、昔好きだったものが楽しくなくなった。もっと楽しいことを見つけたから。
摂理は苦痛に感じる現実から逃げさせない。しかし、気がついたらすべてが苦痛に感じなくなっていた。感覚が麻痺したのでなく、「楽しくなっていた」のだ。感覚が「回復した」のだ。
恋愛より、御子との愛を選択し、御言葉通り切ろうともがいた。自分の中にある恋愛感情をなくそうと祈り続けた。はっきり言って、世の中から見たら有り得ないことだろう。しかし、私はそう選択した。
結局、もっと大きなものを得た。
正直、私の人生を振り返ると「苦痛」を選択してた。あれほど苦痛を避けてたのに。でも、御言葉を聞いてるとそうならざるを得なかったのだ。
そんなわけで、今は「摂理が楽しい」から、ここにいる。「御言葉を守るのが楽しい」し、「御子を愛するのが楽しい」から、摂理にいる。カルトだって言われてるけど、私に言わせれば…「そんなの関係無い」。世の中が何を言おうが、ここに「御子と主」がいるから、私はここにいる。
そういう生き方をしていると…昔のサークルも、マンガも、物足りないと今では強く感じる。不思議な話だけど。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代まであと一歩。数学者を志す大学院生で、教育系の仕事もしています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。

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