おはようございます、satoです。
私は物事に対する思い込みが激しいとよく人に言われますし、実際激しい方だと思います。
一度でも気になることがあったら、それについて延々と考えてしまうからでしょう。
特に間違った情報や錯覚で物事を正しく見れなかったり、過去の考え、感覚が出てきたときは厄介です。
その方向でずっと考えてしまい、完全に妄想状態になってしまいます。
一度この状態になってしまうと、どんなに正しい情報を教えてもらったとしても事実と違う経験をしても完全に「自己主観」に陥ってしまいます。
そこから正しい認識に戻るまで、本当に長い時間がかかっているものもあります。
この傾向で一番大変だったのは、摂理についてインターネットで検索した時そこに書いてあった「摂理がカルトだ」って情報を鵜呑みにして、しばらく信仰が持てなかった時です。
この時も今まで親しくしていた人に対して「この人たちは自分たちのところに入れたいからこうしてるんだ…」という疑念が拭えず心が苦しかったです。
摂理にいる人の信仰の証によく書かれていることの一つに「摂理のことを悪く書いている文章を読んだり、そういう話を聞いたけど、自分たちが接している人や御言葉を聞くと全く間違いだと感じた」というのがあります。
私個人としては、こういう話は本当にハレルヤ(神様が共にしているなぁ)と感じますね。私はその逆で、どんなに人が良くしても御言葉を聞いても、「悪いものだ」という感覚が拭えませんでしたし、その方向で整合性が合うようにすべてのことを脳内解釈していましたからね…。
幸いなことに、御言葉のとおりにしたら実際に成されたという経験と、イエス様に対する信仰と信頼、そして愛されているという感覚によって摂理を出るということはなく、しばらくお祈りをしながら徐々に「実体」を知ることが出来たわけです。
結局、分かってみるとその人たちは本当に私のことを考えて、良くしてくれているし、祈ってくれてもいました。感じていた通り、真心を込めて接していたのです。
ただ、私だけが疑心暗鬼に囚われて損をしていました。
しかし、それでも今知ることができたから感謝です。これも主の祈りと皆の真心、そして私が祈り、最後まで御言葉を聞いて少しずつでも信じたことがあったからです。
間違って認識したら、もっと苦しくなってしまいます。
だから、知るときには初めから正しく認識できるように注意しなければなりません。
そして、自分が認識したことが正しいのか、常に研究し確認しなければなりません。
研究とは、自分がこれまで知っていること、考えていることが実際と合っているのか繰り返し確認することです。
私ももっと摂理のこと正しく認識していきたいです。
この記事を書いたブロガー
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「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。
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