「天の側」に立って行うことの喜び


おはようございます、satoです。

月明洞の話は尽きません。今日も月明洞滞在時の話です。

私が月明洞に行った時には必ず「一つのテーマ」に沿った出来事が起こります。
2015年に行った時は天が私を喜ばれている、ということと「感謝」。
2016年は「深い対話」と「経緯」。
という感じです。

で、今年の修養会で起きた出来事の流れは「自分の位置」と「前もってすること」、そして「歴史」でした。

今回はその一つ「私の位置」に関する出来事を書きたいと思います。
私の位置について今回の修養会で見えたものの一つは「天に栄光を帰す人」で、それは前に書きました。
今日はもう一つ「人を助ける人」という話をします。

食事をしていたら、いつの間にか与える側になっていた

今回の修養会では、多くの日本の摂理メンバーが集まって行動を共にしていました。
月明洞では鄭明析先生を通して神様が食事を用意してくださっていました。ちなみに食事はどれも恵みに満ちたものですが、その内容は

月明洞の朝ごはん特集@摂理女性Lunaのハッピーフライト♡キリスト教福音宣教会

月明洞の昼ごはん特集@摂理女性Lunaのハッピーフライト♡キリスト教福音宣教会

にて紹介されていますので、こちらをご参照ください。
おそらく晩ごはんもすぐに紹介されることと思いますので、お楽しみに(笑)
(8/14追記:紹介されましたー(^o^)

月明洞の夜ごはん特集①サムギョプサル@摂理女性Lunaのハッピーフライト♡キリスト教福音宣教会

月明洞の夜ごはん特集②サムゲタン@摂理女性Lunaのハッピーフライト♡キリスト教福音宣教会)

ところで、今回食事の時に私は「人に食事を分け与える」ことが多かったです。
誰かに言われて、というより流れに乗って独りでに。

晩ごはんでサムギョプサルを食べていたときのこと。
お店を貸し切って日本のメンバーがご飯を食べていました。
しかし、あまりの人の多さにお店の人の手が回らず…なかなか食事が届きませんでした。
その時、たまたま私がタレを取りに行こうと行っていたら、ご飯が用意されていました。その時ふと感動があってそのご飯を配ることにしました。
というのも、お店の方々はご飯を注ぐことで忙しそうにしていたからでした。

ひとまず配っていたのですがそうしたら一旦なくなってしまって、次のを待っていました。
そうしていたら、切れた水を補充したり、タレを配ったり…と気がついたら給仕する側になっていました。
同じ教会から来ていた人は「あれ、いつの間に従業員になっていたの?」といじられたり、

日本人メンバー「ムルチュセヨ(韓国語でお水ください)」

sato「あ、私日本人です」

なんてやり取りもあったりしました。

こういうことが他にも何回かありました。チキンを食べたときも、あとで色々あって追加されたピザを届けていたり…(笑)

人に良くすることについて気づいたこと

どうして、私が食事を配ろうと思ったのか?一つにはこんなに良くしてもらったのに、ただ自分がご飯を食べるだけでいいだろうか?何かもっと良くしてあげたいという気持ちがあったからです。
最初はそういう心があったので、サムギョプサルを食べていてもどこか心が落ち着きませんでした。

振り返ると、昔から人に良くしたい気持ちはありましたが、それよりは「もっと自分が食べたい、何も気にしないで食べていたい」という気持ちが強かったです。
むしろ、人のことを気にして食事を楽しめないことが嫌でした。
だけど、今回は「心がすでに満足していた」から、「神様の愛が満ちていた」から、ただ食べるより皆のために行動したいな、という感動がありました。
よく摂理では「食事の時に皆が食べられるように指導者が良くしてあげる」という話を聞きますが、それはこういうことなのか、と悟りました。
また、「皆ちゃんと食べられているだろうか…」と気になったりもしました。

昔は人に奢られることも気にしていましたし、人に良くしてもらうのはちょっと負担でした。
それは、自分も何かしなきゃ、という思いが出ていたことが大きかったです。
しかし、実際良くしてあげるとわかったのですが、心から良くしてあげるというのは負担にならず、むしろ喜びになるのです。

そういう意味で、サムギョプサルを食べていた時は「これ以上やったら皆食べにくそうかな…」と感じて止めたのですが、これは反省なのかな…とも思っています。
何故かというと、止められた時私は「今までやってきたから、最後までやらなきゃ」という感情が強く出てしまっていたからでした。
やらなきゃと思ってしてしまうと、やられる側は負担に感じてしまうのですよね…。

まずは、自分が「喜んで人に仕えられる」くらい成長できたことに感謝して、続けて「楽しんで」できるようにしていきたいです。

自分の立ち位置

私は昔から「人を助けたい」という気持ちが強かったです。
悲しい物語を見るとそのキャラクターを救いたいと考えたり、悲しんだり、そういうこともありました。
摂理に来てからも、御言葉を聞けるように後ろで補助する役割をしていました。

最近ある人と話している中でそれは「愛が深い」人だからだ、と気づきました。
確かに、私は自分のためだけに生きようとしたら駄目な人間でした。周りの人のことも気にしちゃうから。

人を気にする、というのは「神様を見れない」という負の面もありますが、本来「周りの人に気を配り、愛を与えてあげられる」という一面もあります。
むしろ、皆人を気にしなければ管理がうまくできず大変なことになります(笑)

そういう意味で、今の私の立場は本当に相応しいところなのだと分かりました。
月明洞滞在を通して私の個性と位置を正しく教えてくださった神様に感謝します。

ABOUTこの記事をかいた人

「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代まであと一歩。数学者を志す大学院生で、教育系の仕事もしています。 軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。