祈りに行き詰まった話

おはようございます、satoです。

最近、私の祈りのシステムが少し変わってきました。
今までは「私の心にあることをそのまま」祈っていました。
こうすることによって、神様に自分の思いを告げ「何も言えぬまま溜まっていた感情」を放つことが出来ました。
自分の思いを告げ、その思いと向き合うことで過去の自分の問題を解き、自分の心の問題を消化することが出来ていました。

ところが、ここ最近この方法で祈ってもあまりスッキリと祈れなくなっていました。
明け方に少し目を覚まして行っても祈りがスッキリと出来ず、言葉が出ないことが数日、数週間続いていました。
それで、あまり心の中で力が出ずに仕事をしていました。

自分の中では、神様に話したいことがある。
しかし、自分の中にある感情はそれとは違うことばかり。
雑念を追い払おうとしても、雑念が増えて辛くなる。

そんな葛藤が続いていたある時、思い切って形式的でもいいから、「きれいな祈りをしよう」としてみました。
そうしたところ、とてもキレイに祈れました。数分だけでしたが心が楽になりました。

信仰を持って間もない人は祈ったこともないので、神様に話せと言っても何を話していいのか分かりません。
そもそも祈りたいとすら思ってなくて、ただ「祈りなさい」と言われたから祈ろうとしている…あるいは時間が来るまでじっとしている人もいるかと思います。
そういう人には、「自分が思っていることをなんでも話していい」とアドバイスしたいです。

だけど、私のように「神様と何回もやり取りしている」段階の人、信仰が深まった人は、より「自分のこと」でなく「神様のこと」を話すことで祈りが深まっていきます。
人間同士でも初対面の人ならまず自分を知ってもらおうと色々話します。
しかし、仲が深まったら自分のことだけでなく相手のことを気遣って話す内容を変えていきます。
これと同じです。
そのことをこの祈りの期間で深く悟りました。

なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。-ローマ人への手紙8章5-6節

 

人間には「肉」と「霊」があります。それに応じて、自分の心にも「肉の感情」と「霊の想い」があります。
摂理に来て長らく御言葉を聞きながら信仰生活をしているからか、私にも霊的な思いが幾分か強くなっています。
霊の思いは、「食べる、着る、寝る、殖やす、生きる」等の原初的な思いとは異なる、もっと本質的な思いです。
「未来について考える」、そのような他の動物にはないものこそが霊の思いです。

のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。-伝道の書3章11節

そういうわけで、祈りについてぶつかっている時は、ひとまず「自分の心に語りかける何か」に耳を傾けるのが良いです。
それに素直に従って、たとえ気持ちが追いついていなかったとしても、そのとおりに祈れば少し状況が良くなるはずです。
それが「神様が創られた人間」の本心ですから。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。