おはようございます、satoです。
本日は聖書に出てくる「過越の祭」とは何か、聖書に書かれていることをまとめたいと思います。
過越の祭はイスラエル民族にとってとても大事なもの。一言で言うと、民族が解放されたことを記念する日なのです。
また、イエス様が十字架にかかる直前に弟子たちと最後の晩餐を行われたのもこの過越の祭の日になります。
では、具体的にはどんな日なのでしょうか?
まず、元々はエジプトで奴隷となっていたイスラエルの民たちが神様に願い求め、モーセとアロンを通して神様が「イスラエルを解放する」と話したことから始まります。
この時のエジプトの王(パロ、ファラオとも)は頑なにイスラエルの民たちを解放することを拒みましたが、10の災いを起こすことによってついにパロはこのことを許諾するようになりました。
12:21そこでモーセはイスラエルの長老をみな呼び寄せて言った、「あなたがたは急いで家族ごとに一つの小羊を取り、その過越の獣をほふらなければならない。 12:22また一束のヒソプを取って鉢の血に浸し、鉢の血を、かもいと入口の二つの柱につけなければならない。朝まであなたがたは、ひとりも家の戸の外に出てはならない。 12:23主が行き巡ってエジプトびとを撃たれるとき、かもいと入口の二つの柱にある血を見て、主はその入口を過ぎ越し、滅ぼす者が、あなたがたの家にはいって、撃つのを許されないであろう。 12:24あなたがたはこの事を、あなたと子孫のための定めとして、永久に守らなければならない。 12:25あなたがたは、主が約束されたように、あなたがたに賜る地に至るとき、この儀式を守らなければならない。 12:26もし、あなたがたの子供たちが『この儀式はどんな意味ですか』と問うならば、 12:27あなたがたは言いなさい、『これは主の過越の犠牲である。エジプトびとを撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越して、われわれの家を救われたのである』」。民はこのとき、伏して礼拝した。
口語訳聖書 出エジプト記12章21−27節
その最後の災いというのがエジプトにいるすべての長男(ういご)を死なせることでした。
もしこの時代に私がエジプトにいたら死んでいたわけですね…。
しかし、神様はイスラエルの民をエジプトの民と区別するために、小羊の血を家の門に塗ることを命じられたわけです。
実際、その夜にエジプトの民たち、その家畜のういごは皆死に絶えました。しかし、イスラエルの民たちの中には死人はいませんでした。
このようにして、イスラエルの民たちはエジプトから解放されました。そして、このことを…神様の手によって強大な国であるエジプトから解放されたことを記念して、過越の祭を行うように命じられたのです。
では、具体的にどのようにすればいいのでしょうか?元々の神様の話されたことは
12:3あなたがたはイスラエルの全会衆に言いなさい、『この月の十日におのおの、その父の家ごとに小羊を取らなければならない。すなわち、一家族に小羊一頭を取らなければならない。 12:4もし家族が少なくて一頭の小羊を食べきれないときは、家のすぐ隣の人と共に、人数に従って一頭を取り、おのおの食べるところに応じて、小羊を見計らわなければならない。 12:5小羊は傷のないもので、一歳の雄でなければならない。羊またはやぎのうちから、これを取らなければならない。 12:6そしてこの月の十四日まで、これを守って置き、イスラエルの会衆はみな、夕暮にこれをほふり、 12:7その血を取り、小羊を食する家の入口の二つの柱と、かもいにそれを塗らなければならない。 12:8そしてその夜、その肉を火に焼いて食べ、種入れぬパンと苦菜を添えて食べなければならない。 12:9生でも、水で煮ても、食べてはならない。火に焼いて、その頭を足と内臓と共に食べなければならない。 12:10朝までそれを残しておいてはならない。朝まで残るものは火で焼きつくさなければならない。 12:11あなたがたは、こうして、それを食べなければならない。すなわち腰を引きからげ、足にくつをはき、手につえを取って、急いでそれを食べなければならない。これは主の過越である。
口語訳聖書 出エジプト記12章3−10節
まず、この月(正月)の10日目に一家族ごとに傷のない一歳の雄の小羊(またはやぎ)を取ります。
これを14日目の夕暮れに屠り、その血を家の門に塗ります。これが神様への目印となるのです。
そしてその夜に腰を引きからげ(これは服の裾を腰まで上げる、ということのようです)、足に靴を履いて、手に杖を取って、小羊の肉を焼いて、種入れぬパンと苦菜と一緒に急いで食べます。
腰や足の話は「いつでも急いで外に出られるようにする」ためのもので、エジプトからすぐに出るための準備なのかなと思います。朝まで焼いた肉を残さないとか、水で煮てはいけないとかも同様で、「エジプトを夜のうちに出る」ので朝まで残してはいけないし、時間がかかるから煮てはいけないのかなと思います。
12:14この日はあなたがたに記念となり、あなたがたは主の祭としてこれを守り、代々、永久の定めとしてこれを守らなければならない。 12:15七日の間あなたがたは種入れぬパンを食べなければならない。その初めの日に家からパン種を取り除かなければならない。第一日から第七日までに、種を入れたパンを食べる人はみなイスラエルから断たれるであろう。 12:16かつ、あなたがたは第一日に聖会を、また第七日に聖会を開かなければならない。これらの日には、なんの仕事もしてはならない。ただ、おのおのの食べものだけは作ることができる。 12:17あなたがたは、種入れぬパンの祭を守らなければならない。ちょうど、この日、わたしがあなたがたの軍勢をエジプトの国から導き出したからである。それゆえ、あなたがたは代々、永久の定めとして、その日を守らなければならない。 12:18正月に、その月の十四日の夕方に、あなたがたは種入れぬパンを食べ、その月の二十一日の夕方まで続けなければならない。 12:19七日の間、家にパン種を置いてはならない。種を入れたものを食べる者は、寄留の他国人であれ、国に生れた者であれ、すべて、イスラエルの会衆から断たれるであろう。 12:20あなたがたは種を入れたものは何も食べてはならない。すべてあなたがたのすまいにおいて種入れぬパンを食べなければならない』」。
口語訳聖書 出エジプト記12章14−20節
また、14日目の夕方から始めて、21日目の夕方まで種入れぬパンを食べ続けなければならない、とあります。
これは2023年に以下のような御言葉が出ており、その象徴であると考えていいと思います。
「パンは御言葉の比喩だ」とおっしゃいました。
聖書でイエス様はご自身の御言葉をいつもパンに譬えました。
(中略)
パリサイ人、サドカイ人、書記官たちの誘惑を受け入れるなということが今日の御言葉です。このことを話してきたのに悟れていないから、もう一度これについて話します。
2023年5月28日主日礼拝の御言葉「1.パン種のように腐らせる人たちの話を聞くな。
「パン種に気をつけなさい。腐るもの、間違ったものに気をつけなさい。私が言ったのはパンではなく、命の御言葉だということを悟れないのか。」
2.御言葉を聞いて、話した人の言わんとしていることを知りなさい。」より
ここに該当する聖句も併記します。まず、この御言葉の聖句は
弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れていた。そこでイエスは言われた、「パリサイ人とサドカイ人とのパン種を、よくよく警戒せよ」。弟子たちは、これは自分たちがパンを持ってこなかったためであろうと言って、互に論じ合った。イエスはそれと知って言われた、「信仰の薄い者たちよ、なぜパンがないからだと互に論じ合っているのか。まだわからないのか。覚えていないのか。五つのパンを五千人に分けたとき、幾かご拾ったか。また、七つのパンを四千人に分けたとき、幾かご拾ったか。わたしが言ったのは、パンについていではないことを、どうして悟らないのか。ただ、パリサイ人とサドカイ人とのパン種を警戒しなさい」。そのとき彼らは、イエスが警戒せよと言われたのは、パン種のことではなく、パリサイ人とサドカイ人との教のことであると悟った。
口語訳聖書 マタイによる福音書16章5-12節
です。この中でパン種とはパリサイ人とサドカイ人の教えのことだと説明されています。
また、イエス様が自分の御言葉をパンだと喩えたのは以下の聖句です。
よくよくあなたがたに言っておく。信じる者には永遠の命がある。わたしは命のパンである。
口語訳聖書 ヨハネによる福音書6章47−48節
また、以下の聖句も参考になるかと思います。
イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。
口語訳聖書 マタイによる福音書4章4節
もう一つ、この「種入れぬパンの祭」で
その時々に、あなたがたが、ふれ示すべき主の定めの祭なる聖会は次のとおりである。正月の十四日の夕は主の過越の祭である。またその月の十五日は主の種入れぬパンの祭である。あなたがたは七日の間は種入れぬパンを食べなければならない。その初めの日に聖会を開かなければならない。どんな労働もしてはならない。あなたがたは七日の間、主に火祭をささげなければならない。第七日には、また聖会を開き、どのような労働もしてはならない』」。
口語訳聖書 レビ記23章4−8節
はじめと終わりに聖会を開きなさい、とあります。つまり、この日にみんな集まって神様に捧げ物をすることで栄光を帰しなさいということです。この捧げ物の細かい決まり事は民数記28章に書いてありますので、興味のある方はこちらもご覧ください。
以上、長々と書きましたがまとめると
「過越の祭とはイスラエル民族が奴隷から解放された日で、この時に神様が成された御働きを忘れずに栄光を帰すために記念となった」
ということです。
ところで、3月16日は鄭明析先生のお誕生日です。
鄭明析先生の御言葉を聞いて、私は神様を知らないところから知るところへ変化し、自分の苦しかった過去と心の問題から解放されました。今まで外の世界は怖いところだと思っていましたが、実際には神様の多くの働きがあったことを、特にこの一年で学び実感するようになりました。
自分のことをどれだけ愛してくださったのか、また自分の内面の世界を否定なさらず受け入れてくださったのか、神様の愛を感じるようになりました。それは私にとってイスラエル民族がエジプトから解放されたような出来事でした。
そういうわけで、先生の誕生日を心からお祝いします。
また、先生を送ってくださった神様に心からの感謝と栄光を帰します。
この記事を書いたブロガー
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「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。
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