伝道の書通読感想:「何者でもない自分」

おはようございます、satoです。
前回は雅歌を読んでの感想を書きましたが、その前に伝道の書も読んでいるわけで…。
今日は伝道の書を読んで感じたことを書きたいと思います。

伝道の書といえば、ソロモンがさまざまな悟りを書いた箇所です。
その代表となるところ

伝道者は言う、
空の空、空の空、いっさいは空である。

口語訳聖書 伝道の書1章2節

伝道者は言う、「空の空、いっさいは空である」と。

口語訳聖書 伝道の書12章8節

この強烈なメッセージを中心として、さまざまな世にある楽しみ、富、名声、笑い…それらが全て虚しいものである、ということを書いています。
この話を聞きながら、いつも「ポジティブな意味」を捉えられず、「何をやっても虚しいものだ」ということを伝えたいのだろうか?と疑問に思っていました。

余談ですが、この聖句は以前「ブルーアーカイブ」というゲームの第三章でしばしば引用されていて、それについて感じたことを記事としたことがあります。

つい最近4周目した時にもやはりあまり深くは悟れず、一体どうしたものか…と思っていたのですが。
昨日御言葉を聞いている時になぜかふと次のような悟りが来たのです。

「自分がやっていることは何者でもない。
私が何かを成し遂げたところで、あるいは失敗したところで何も影響はない。
自分は何者でもない。

だけど、神様はそんな何者でもない自分を愛してくださっている。
何者でもない私で良いのだ。」

うまく言語化できませんが、こんな感じの悟りでした。

思えば、私は自分が何もできない時、自分が失敗してそれを人に指摘される時に非常に苦しくなっていました。
なんと言いますか、「急に床がなくなって落下したような」感じの恐怖でした。自己肯定感がどうしようもなく下がりました。
それは自分が「何か特別な存在である」ことをアイデンティティとしていたところがあったからです。
自分が人と違う、人にはできないことができる、自分の「出来るところ」を自分の拠り所としていたのです。
だから、自分がやっていることが「できないこと、失敗している」という事実が本当に恐怖だったのです。

しかし、摂理で様々な経験をしたことで「失敗したとしても必ずリカバリーできるし、リカバリーできたならもっといいものが得られる」という感覚が少しずつ芽生えてきたのです。
それはそれで嬉しかったのですが、「それでは自分がやっていることってなんの意味があるのだろうか?」という疑問が尽きませんでした。結局うまくできても、できなくても、変わらないのなら…私はなんの意味があるのでしょう?

これが、ちょうど一年前に自分の生活を改善するために様々な取り組みをした際に行き着いた一つの問題でした。

この「誰かにとって特別なものでありたい」という欲求と、「自分のやっていることは意味がないのではないか?」という疑問は表裏一体でした。つまり、何者でもない自分に自信を持てなかったのです。
しかし、神様は何者でもない私を愛してくださったのです。できるできない、というより先に愛してくださったのです。

改めて内容を見てみるとソロモンもまた自分のやっていること、持っている能力、ダビデから受け継いだもの…そういったもの一つ一つと向き合った時に「それが虚しいものである」とはっきりと認めるに至りました。
その末に気づいたのが「神様の前では自分は何者でもない」ということです。それが「空の空、いっさいは空である」という言葉の真意なのかなと思います。
これは苦しいことでなく、彼にとっては希望でもありました。それは「そんな何者でもない自分が存在している」ことが希望であり、「神様は愛してくださっている」と悟ったからです。

だから、私も一つずつ手放してみようと思います。
自分自身が思っていた存在価値を、一つ一つ。少しずつ。

認めてみようと思います。「自分はこの世界では何者でもない」と。
怖いかもしれないけど、その先に希望があると信じて。

事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である。神はすべてのわざ、ならびにすべての隠れた事を善悪ともにさばかれるからである。

口語訳聖書 伝道の書12章13−14節

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。