自分がしている仕事は「自分の」仕事なのか?

おはようございます、satoです。
本日は主日ということで教会で礼拝を捧げました。今日は久々に何の使命もなく御言葉を聞ける日でした。
先週からより「一対一の神様へのメッセージ」を意識するようになって、色々自分の現状について祈り、特に自分の誤解しているところを解いてほしいと祈った際に受け取った御言葉が「全て神様の御心どおりに」という主題でした。

今日の御言葉で「神様に助けてもらった後、どうして人の心が神様から離れてしまうのか」について詳しく教えてくださいました。
聖書を見てみてもイスラエル民族が神様から助けられたにも関わらずその後神様から離れる姿を見ていたし、自分自身もそういうところがあるので(むしろそれが分かっているから神様に求められないところもある)どうやったら解決できるのか気になっていたのです。

わたしはあなたのかたわらを通り、あなたが血の中にころがりまわっているのを見た時、わたしは血の中にいるあなたに言った、『生きよ、野の木のように育て』と。すなわちあなたは成長して大きくなり、一人前の女になり、その乳ぶさは形が整い、髪は長くなったが、着物がなく、裸であった。
わたしは再びあなたのかたわらをとおって、あなたを見たが、見よ、あなたは愛せられる年齢に達していたので、わたしは着物のすそであなたをおおい、あなたの裸をかくし、そしてあなたに誓い、あなたと契約を結んだ。そしてあなたはわたしのものとなったと、主なる神は言われる。…(中略)
ところが、あなたは自分の美しさをたのみ、自分の名声によって姦淫を行い、すべてかたわらを通る者と、ほしいままに姦淫を行った。あなたは自分の衣をとって、自分のために、はなやかに色どった聖所を造り、その上で姦淫を行っている。こんなことはかつてなかったこと、またあってはならないことである。 …(中略)
あなたがそのすべての憎むべきことや姦淫を行うに当って、あなたが衣もなく、裸で、血の中にころがりまわっていた自分の若き日のことを思わなかった。

口語訳聖書 エゼキエル書16章6-22節

ちょうど昨日エゼキエル書のここを読んでいたのですが、この聖句に該当する話が出て驚きました。

そして、その根本の原因が「自分の行いの条件と対価で、自分の力によって得たと思っているから」だと教えてくださいました。
…確かに、私もそういうところがありました。むしろ「自分の力で得たもの」がほしいと思っていたくらいでした。
正直、私は「誰かからもらったもの」をちょっと遠ざけてしまう傾向にありました。最近はありがたく受け取って使えるのですが、それでも「人のもの」という認識になるとかなり苦しく感じる部分がありました。怖くなっちゃうのでしょうか??
でも、逆にそれが「自分の考えで適当に」行なってしまい、時に失敗してしまう原因でもありました。

このブログを書いていることも、現在任されている仕事や使命も、自分が求めたにせよ任されたにせよ…大本を辿ると「神様が任せてくださった貴重な仕事」に他なりません。
しかし、それを忘れて「自分がしないといけない義務」という認識になってしまうと形式的に仕事をしてしまったり、手を抜いてしまったり、どこかでミスが起きてしまうのです。
その仕事は「神様が任せてくださった仕事」なので、責任者である神様に相談して一緒に行うのが一番良いのです。

正直言いますと、私はこれまで「自分の力で得たもの」じゃないと安心できませんでした。
そうじゃないと「気が抜けなかった」のです。
しかし、「神様が任せてくださったもの、神様から与えられたもの」だからもっと大事だし、そのことを忘れなければもっと神様に近づくことができるのです。
だから、もっと神様に感謝して一緒に頑張っていこうと決心しました。
今日も御言葉で自分の認識を変えてくださったことに感謝します。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。