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研究は漸進的に進めていくもの。

研究は漸進的に進めていくもの。

こんばんは、satoです。

昨日研究しながら悟ったことを書きたいと思います。
題して、「研究は漸進的である」。

数学における研究は「ある命題(数学における問題のこと)が成り立つ」ことの証明を中心に進めていきます。
この間は具体的な計算をして、命題を「推測」してそれを証明する数学研究の流れを書きましたが、今日は証明をどのようにするのか、に関する話です。

数学の命題は基本的には「Aに対してBが成り立つ」というものです。
例えば、有名なフェルマーの最終定理は

「任意の3以上の自然数nに対して、

    \[x^n+y^n=z^n\]

となる自然数x.y.zは存在しない」

という形の命題です。ここでいうAとは3以上の自然数n、Bは「x^n+y^n=z^nを満たす自然数が存在しない」です。(この場合、Bの中にはまた「C(すべての自然数x,y,z)に対してD(x^n+y^nneq z^n)が成り立つ」という形の命題があります。)

これを示すためには、「すべてのAについてBが成り立つ」ことを示す必要があります。しかし、数学で取り扱う対象というのは大抵無限にあります。あるいは、有限個だとしてもかなり多くあります。
なので、一つ一つの例を計算して示す、というのは基本出来ません。
それではどうするのか、というとAという対象が持つ性質(定義や定理になっているもの)のみを使って計算して、Bという結果を出すということをします。これが「証明」です。この中で「すでに証明されたもの」を使っても構いません。

さて、実際にある命題「AならばBが成り立つ」を「推測」したとします。
この時、最初から「すべてのAについて」Bが成り立つことを示そうとしたら…ほとんどの場合なにも出来ません。
手がかりも全く無く、頭の中は真っ白。時間が過ぎてもただ、目の前には真っ白な紙だけが残っています(笑)
それではその場合、どのようにすればいいのか…と言いますと。

最初は計算できる幾つかの具体例で計算してみます。
最初に命題を予想する時に計算をしていることが多いですが、さらにいくつか計算してみます。
フェルマーの最終定理で言うと「n=3,4,5で計算する」という形でしょうか。
この時、できるだけ「成り立たなさそうな例」でやってみると良いみたいです。ある人が言うには「一流の数学者は予想に反する例を考える」らしい…。予想に反しそうな例を思いつく辺りが一流なのでしょうか。

計算を繰り返すと、段々とどのように計算するのかが理解、といいますか感覚がつかめます。そうすると、頭の中でも計算できるようになりますし、「すべての場合で」証明するときのヒントが見つかることがあります。

さて、計算してBが成り立っていたとしましょう。
そうすると、次は「すべての場合で」…と行けたら良いのですが、うまく行かなかった時は幾つかのパターンで計算してみます。たとえば、「偶数(2n)」とかいう感じで。フェルマーの最終定理で言うなら「ソフィージェルマン素数」とか「正則素数」という形になるのでしょうか。
最初は「個々」のケースで有限個であるのに対して、今の場合は「一つの性質を持った無限個」となります。この性質からBを導くのです。
具体例だと、その例特有の方法で出来てしまうことがあります。小さい数の例だと簡単に計算できてしまうことも。
それに対して、今の場合はある程度抽象化されているので、個々のケースのみでなくより一般的に適応できる計算方法を見つけることが出来ます。
この場合でも、まずは一つ具体的に数字を入れたパターンで計算して、そこから一般のパターンで計算すると良いです。

こうして最終的にはすべてのAで示すことを試みていくのです。
このように数学の研究というのは漸進的に進めていくのでした。

もちろん、こうやってすべてがうまくいくとは限りません。
フェルマーの最終定理の場合は、この後楕円関数論やモジュラー関数など様々な分野が発展していって、具体例を計算した時にはわからないような深い性質を使って証明されました。この辺りはそれこそ「ひらめき、霊感」が必要だったでしょう。
しかし、それでも「具体例」から始めて少しずつ一般のパターンで示していく、という数学の証明を模索する流れは変わりません。具体的に計算していく流れの上に、一つの「霊感」が働くのです。

御言葉の研究も、これと同じです。
御言葉というのは、「すべての場合に適応される」ような一つの法則です。
色々な場合に適応できる、ということは裏を返せばそれだけ抽象度が高いということです。
だから、御言葉をそのまま分析し、思考しても何も理解できない、ということが多いです。その場合はどうすれば良いのか…というと、自分の生活で実際に「実践してみる」ということが必要になります。
この自分の生活に「どうやって適応するのか」を考えるのは、御言葉を理解しようと考えるより基本は易しいと感じます。人は「抽象的な思考」をするより「実践的な思考」の方が簡単に感じるからだと思います。

そして、それを行なうためには、まず「小さなところ」から始めると良いです。
研究が漸進的に進むのと同じく、摂理の信仰生活も、御言葉の理解も「漸進的に」、小さなことから始まるのです。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。

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