エゼキエル書を読んでみて…。

おはようございます、satoです。

聖書を通読しようと毎日持続して読み続けています。
昨日はエゼキエル書を読み終わり、ダニエル書に入りました。ダニエル書は短いのですが後半がかなり難しいので意外と時間が掛かるかも…。
というわけで、今日はエゼキエル書を読んで感じたことを書きたいと思います。

エゼキエル書の時代背景

エゼキエル書は旧約聖書の中でも「大預言書」と呼ばれるところの一つです。
前に書いたエレミヤ書と同様、エゼキエルは4人いる大預言者の一人です。
エゼキエルについて語るために、この辺りの時代背景について少しまとめてみましょう。

エゼキエルがいた頃、神様を信じるユダ王国は堕落していました。
偶像崇拝、様々な不正、形式的な信仰…様々な罪を犯し、神様から遠く離れていました。
神様はこれをご覧になって、神様を信じないバビロンという国を使ってユダを撃ちました。

これは全く主の命によってユダに臨んだもので、ユダを主の目の前から払い除くためであった。すなわちマナセがすべておこなったその罪のため、また彼が罪なき人の血を流し、罪なき人の血をエルサレムに満たしたためであって、主はその罪をゆるそうとはされなかった。-列王記下24章3-4節

そうして、ついにバビロンの王ネブカドネザルがユダを陥落させ、王たちを捕虜としました。

そのころ、バビロンの王ネブカデネザルの家来たちはエルサレムに攻め上って、町を囲んだ。…ユダの王エホヤキンはその母、その家来、そのつかさたち、および侍従たちと共に出て、バビロンの王に降服したので、バビロンの王は彼を捕虜とした。これはネブカデネザルの治世の第八年であった。 彼はまたエルサレムのすべての市民、およびすべてのつかさとすべての勇士、ならびにすべての木工と鍛冶一万人を捕えて行った。残った者は国の民の貧しい者のみであった。 -列王記下24章10-14節

これは世界史で習う「バビロン捕囚」の少し前になります。第一次バビロン捕囚というべきでしょうか。
このときに、エゼキエルもバビロンに囚え移されました。

これはエホヤキン王の捕え移された第五年であって、その月の五日に、主の言葉がケバル川のほとり、カルデヤびとの地でブジの子祭司エゼキエルに臨み、主の手がその所で彼の上にあった。-エゼキエル書1章2-3節

というわけで、エゼキエルが預言したのは、神様を信じず偶像崇拝をする国・バビロンでのことでした。

エゼキエル書の特徴

エゼキエル書はエレミヤ書と比べると「比喩」や「幻」によって語られていることがとても多いです。
たとえば、冒頭にエゼキエルが使命を受けたときには幻を見ていました。

第三十年四月五日に、わたしがケバル川のほとりで、捕囚の人々のうちにいた時、天が開けて、神の幻を見た。-エゼキエル書1章1節

また、こんなこともしています。

あなたはまた自分の左脇を下にして寝なさい。わたしはあなたの上にイスラエルの家の罰を置く。あなたはこのようにして寝ている日の間、彼らの罰を負わなければならない。わたしは彼らの罰の年数に等しいその日数、すなわち三百九十日をあなたのために定める。その間あなたはイスラエルの家の罰を負わなければならない。…
あなたはまた小麦、大麦、豆、レンズ豆、あわ、はだか麦を取って、一つの器に入れ、これでパンを造り、あなたが横になって寝る日の数、すなわち三百九十日の間これを食べなければならない。 あなたは大麦の菓子のようにしてこれを食べなさい。すなわち彼らの目の前でこれを人の糞で焼かなければならない」。-エゼキエル書4章4-12節

要約すると、イスラエルが神様を離れていた期間に当たる390日間左脇を下にして寝、その間「人の糞で焼いた」パンを食べるということをしていました…(ノД`)このあと神様が「人の糞の代わりに牛の糞で焼いてもよい」としたけど…それにしても…。このあと、ユダの罪の分、さらに40日間右脇を下にして寝つつ、牛の糞で焼いたパンを食べるのです…。
これくらい、イスラエルとユダが汚らわしいことをした、ということであり、その罪を神様の側である預言者が代わりに罪を負う、ということでもあります。

それにしても…脇を下にして寝続けるとかなり苦しい、ということは容易に想像できます。しかし、どれほどの苦痛でしょうか…しかも、牛の糞で焼いたパン…(ノД`)前にエレミヤほど大変だった人はいないと書きましたが、エゼキエルも相当…(ノД`)

こんな感じで、エゼキエル書にはエゼキエルがした「ユダを象徴すること」と「幻」が書かれています。

エゼキエル書を読んで…

エレミヤ書と同様に、「神様がすぐにバビロンから解放してくださる」と楽観的に考えていた民と、そのように預言していた預言者によって、エゼキエルの「罪から離れよ」という預言はかき消されていきます。
そして、「バビロン捕囚」によってユダが完全に滅んでからは「神様が散らしたところから集め、もとに戻す」という預言をしています。これが大方の流れで、この辺りはエレミヤ書に近いです。
しかし、エレミヤ書と違うところが幾つかあります。

まず、エレミヤ書と比べて罪を糾弾する内容が多いです。
神様がエゼキエルに幻を通してユダにいる人々の罪を見せ、それを伝えることが多いです。また、罪の故に神様がユダの人々を顧みない、ということをよく表現していました。
強いてあげるなら、「憤り」のイメージが強いと感じます。

また、神様の世界、つまり霊界に関することもよく書かれています。

すなわち神は幻のうちに、わたしをイスラエルの地に携えて行って、非常に高い山の上におろされた。その山の上に、わたしと相対して、一つの町のような建物があった。-エゼキエル書40章2節

このあとに続く幻は、黙示録の終盤に書かれている幻と似ています。

この御使は、わたしを御霊に感じたまま、大きな高い山に連れて行き、聖都エルサレムが、神の栄光のうちに、神のみもとを出て天から下って来るのを見せてくれた。-ヨハネの黙示録21章10節

これは、つまり霊界の中にある神様の国、つまり天国の様子を表しています。
ただ、書いてある情報は少し違います。黙示録では「宝石が散りばめられている」ということが書かれていますが、エゼキエル書にはあまりこのような表現がされていません。
これは思うに旧約時代と新約時代の「時代性」の違いなのではないかと思います。

このように、旧約と新約の違い、時代性を感じることができるのがエゼキエル書の特徴…と言えるかもしれません。

さて、次はダニエル書。知恵と聡明さ、霊力があるダニエルの話からは何を感じられるでしょうか…?

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。