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気が狂った、と言われた鄭明析先生の愛。

気が狂った、と言われた鄭明析先生の愛。

こんばんは、satoです。

突然ですが、私はかつて「狂気」について深く考えていたことがあります。
どうしてかといいますと、狂気という概念を持ったキャラクターを物語に出す上で「狂気の世界とはどういうものか?」を考えることになったからです。
果たして、狂気とはどういうものなのでしょうか?

漫画に出てくる「狂気」の例

漫画でも狂気的なキャラクターはよく出てきます。
たとえば、バーサーカー、「狂戦士」と呼ばれるキャラクターは敵味方構わず攻撃してきます。
そこには「戦うことが好き」とか、「人を傷つけることに執着する」という性向が出ています。
そういう人を指して、「気が狂ったのか!?」というわけです。

ここまででなかったとしても、謀反を起こした部下に対して「乱心なさったか!?」と問いかける場面がよくあります。乱心というのは「気が狂った」というニュアンスでもあります。

戦闘漫画に限らず、他のジャンルでも「狂気的」なキャラは存在します。
たとえば某「ざわ…ざわ…」な麻雀漫画の主人公は、常識から外れた麻雀の打ち筋に加えて、「自分の命すら顧みない」行動で周りから「狂気の沙汰」とか言われています。

「狂気の愛」という表現もあります。
最近の恋愛マンガには「ヤンデレ」というジャンルがあるようです。
ある人のことが好きすぎて、その人の言動を気にし、周りに女性がいたらハラハラ…とかは割と普通にあることですが、それが高じてストーカーしたり、監禁したり、あるいは好きな人と親しい女性を傷つけたり…という「狂気的」なことをする女性のことをこう呼ぶそうです。
特に有名なのは、好きな人を友人に取られ、友人の付き添いたちに様々ないじめを受けて精神崩壊を起こした某キャラで、このアニメの最終回はとても話題になりました。私も興味本位で見ましたが…本当に…_| ̄|○ il||li

ここまでとはいきませんが、現実にもストーカーしたり、恋愛絡みで殺人をする、という事件が起こっています。
そういったことを「愛が重すぎる!」と皮肉した漫画もありました。

このように、狂気と呼ばれるものはたくさんありますが、どれも「常識から外れた行為」を指して「狂気的」と呼んでいます。
でも、常識はずれな人は結構いますが、狂ったと言われる人はまれです。その基準って、何なのでしょう?

「狂う」=「至る」

摂理で鄭明析先生は「狂った」について次のような話をされました。

「狂った」というのは「到達した」ということだ。

これは韓国語で「狂う」と「至る」が共に미치다(ミチダ)となることから来ています。

この話を聞くと、今までの例がスッキリとします。

たとえば、バーサーカーは「何よりも戦うことを優先する」ことに到達したから、いかなる状況でも戦います。

ざわ・・・ざわ・・・な狂気の打ち筋の人は「破滅に至るまで勝負すること」が好きなので、命より勝負を優先します。

ストーカーする人も「その人を手に入れる」ことを何よりも優先するから、常識を越えた行いをします。

「狂気」と呼ばれる人は一つのことを何よりも最優先にする境地に「至った」人なのです。
そういう人は、世の中にはあまりいません。だから「常識から外れている」わけなのです。

狂気とは、「人が到達できないところに至る」気質のこと

なんですね。

「狂った」と言われた鄭明析先生の愛

ところで、先程「狂気の愛」について書きました。
相手のことが好きで、その人を自分のものにしたくて精神を病んでしまったり、ストーカーや監禁といった犯罪行為に至る、そういうことを「狂気の愛」と表現しました。
実は、こういう愛を見てきたことが原因で私は「私だけを愛しなさい」という神様の言葉がとても苦しく感じていました。
自分が監禁されているように感じたからです。まるで、ストーカーをされているかのように。

しかし。
それは、本当に「愛」と言えるのでしょうか?

これまた、摂理で鄭明析先生から教えてもらったのですが、

愛とは、その人が願うことをすることです。

果たして、ストーカーや監禁といったことをその人は望むでしょうか?
もし、本当に愛する人なら、そういったことはしてほしくない、と願うでしょう。ただ、自分のそばに居てくれればいいと思うし、相手の幸せを願うはずです。
相手のことを考えないで行なう愛は、残念ながら本物の愛とは言えない、と言わざるを得ません。

鄭明析先生も周りから「狂った」と言われた人です。
それは、衣食住を差し置いて、神様に願い求め、祈り、すべてを捧げてきたからです。
神様が願うなら、自分が持っていなくても貧しい人に施しました。
バス賃をすべて乞食に与え、自分は遠い道のりを歩いていったこともありました。
また、聖書について学ぶために山にこもってずっと祈っていました。

そういった信仰は、誰にでもできるものではありません。
だから、周りの人には理解されませんでした。「あいつは気が狂った、狂人だ」とまで言われました。

しかし、鄭明析先生の愛は誰一人傷つけることがありません。誰も怖がらせるようなことがありません。
むしろその愛は、傷ついた人を癒やすだけの力があります。
穏和で、愛に満ち、いつも平和が成されます。

私もその愛を受けて心の傷と病気が癒やされた人の一人です。
私は直接お会いしてませんが、世の中で傷を受け、苦しんでいた心を愛で解いてくださり、御言葉で導いてくださいました。
それは、鄭明析先生が自分のことより私たち一人一人のことを優先して考え、すべてをしてくださるからです。

だから、神様の愛が「私達のことを常に案じ、与えようとしている」愛なのだと分かりました。
それで、私の「愛に狂う」ということの誤解が解けたのです。

本当の愛は、「精神を病むような」ことがありません。そういう愛を神様は望みません。
本当の愛、それは決して「狂気」、精神的に病んだ愛ではありません。
すべてのことより優先して相手に仕え、敬う境地に「到達した」愛、それが本当の愛なのです。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。

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