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個性と才能について思うこと

個性と才能について思うこと

おはようございます、satoです。

ここ最近御言葉で「位置が大事だ」ということが続けて伝えられています。
自分の位置で開発し、次元を上げて行おう、という流れです。

ここで皆が考えるのは、

「私の『位置』とはどこだろう?私はどんな才能があるのだろうか?」

ということではないでしょうか?
今日は位置、転じて「個性」と「才能」について色々考えたことを書きたいと思います。

世間一般に考える「才能」に対する一見解

そもそも、皆が「個性」や「才能」と話すとき大抵人より秀でているものとイメージします。
皆がやらない、自分にしかできないこと。それを「貴重な個性」と考えてしまいます。
この考えは人と比べて」優れているから才能がある、「普通にはできないもの」が貴重だという「人と比べた相対評価」に基づいています。

特に日本人は「一般の人より優れた専門性があるもの」、たとえば「綺麗な絵」とか「壮大な世界観」とか、そういうものがあって初めて「貴重な才能がある」と認められます。裏を返すと、それくらいの結果がないと普通に見られてしまいます。

ところで、個性や才能について、神様はどう思っていらっしゃるのでしょうか?

主が直接大きなことを任せた人もいるし、 主が直接小さなことを任せた人もいるし、 主が直接とても小さなことを任せた人もいる。 …彼ら皆に、主が才能どおりに、タラントを預けたのだ。-摂理の御言葉「熱心にやりなさい (主が各自の才能どおりにタラントを預けなかった人はいない)」より

これは今朝聞いた御言葉の抜粋ですが、個人的にはこの一言にとても感動しました。
というのも、ここには人と比べて優れているかどうか、でなく「自分の能力に応じて」主が各自に任されたことがあると書かれているからです。
つまり、人より優れているから貴重だ』というより、『主が任せたからどれも貴重だ』という考えがあるのです。

何も「人にはできないこと」ばかりが貴重なのではありません。
誰にでもできることだとしても、誰もしなければ自分たちの生活が成り立たないことがあります。
たとえば、工場での作業は単純かつ長時間働く仕事なので、比較的多くの人ができることです。しかし、この作業がなければ現在の流通は成り立ちません。

このように、人と比べて優れている」かどうか、ではなく「自分に何ができるか」を考えると「個性」や「才能」を見つけやすいと思われます。

才能と発達障害、そして「見えない」才能

ところで、「才能」や「個性」という問題は「発達障害」と大きく関連します。
というのも、人とは違った方向に発達し社会に適応しにくい「発達障害」が、見方を変えると「才能」、「個性」になる、という話や発達障害を持っている人が何かしらの特異な「才能」を持っている、という話が出てくるからです。

私に関して話すならば、私は一種の「才能」がある方の人と思っています。
たとえば、幼少期から数学や英語などの「言語や形式」に興味を持ち、論理的に物事を考え表現できる、というのは普通ではないことのように思います。
また、私は子供の頃から「深く考える」ことが得意で、漫画やゲームの設定・世界観を見ては自分なりに考察することをずっとしていました。それによって洞察力が磨かれ、摂理に来てからも御言葉に対して深く向き合えるようになり、理解が深まったというものがあります。
数学・ジャグリングは普通の人ができないようなことなので、そういう意味では「個性」が見えやすいです。

ところで、こういう話をすると「発達障害だからと言って才能があるわけでない、自分には何もできない」という人がいます。
確かに、発達障害は「脳の特性上発達に偏りがある」というわけで、突出した才能が出てくるとは限らないです。

しかし、私が思うのは、才能とは「見える」ものだけでなく「見えにくい」ところにも存在するということです。
この「見えにくい」才能というのは、例えば

大多数の人が見逃しがちなところに気づく

大多数の人がやらないところも真剣に取り組む

色々なことに感動する

素直である

謙遜である

どんなことがあっても諦めずに生きる

といった世間一般で考えられる「才能」とは異なる「普段の生活で出てくる、当たり前のようなもの」です。
たとえば、「ゴミを忘れずに捨てる」とか「毎日掃除をする」とか、そういうことも才能です。(事実、私はどちらもできていません…正直うらやましい)

「見えにくい」才能は、自分も他人も見過ごしがちですが、とても大事なことです。
だから、「小さなこと、とても小さなこと」を任せる人もいる、と主は話されているのだと思います。

才能の見つけ方

このような「見えにくい」才能ですが、「人が当たり前にできていることもできない、人と違うこともできない」という人もいます。
そういうときにはどうすればいいでしょうか?

私が摂理に来て思うのは、創造主である神様から学ぶこと、そして実際にやってみることで「自分の才能、個性」を見つけられるということです。

実際、昔の私は自分には何の才能もない、自分は駄目なやつだ…という考えが強かったです。
人は真面目だ、面白い、と話してくれていましたが、それが自分の個性、才能だとは思っていませんでした。
しかし、神様にしがみつく形で摂理を走る中で、自分の真面目さ、正直さ、面白さ、洞察力、発想力etcが「個性」と呼ばれるものなのだと認識するようになりました。これらの中には摂理で磨かれたものもありますし、摂理に来る前から備わっていたことに気づいたというものもあります。

無個性と呼ばれるような人もまた「個性」なのだ、と話していた牧師さんもいました。
このようにどのようなものも、神様の前で磨かれれ、使われれば「個性」となり得るのです。

しかし、それが本当に「個性」なのかは、神様の前に出ないと分かりません。
自分が個性だと思っていても、それが「直すべきこと」である可能性もあるわけです。
それを分別する正しい基準が必要なのですが、それが「自分たちを創造した神様」の御言葉、と私は考えます。

以上をまとめますと世間と違って「見えにくい」個性、才能もある。人より優れているからと言って個性だとは限らないし、人より優れている必要はない。自分が喜んでできること、自分が一番輝くところが「自分の位置」だ。

となるでしょうか。

自分の輝く「位置」を探している人はとても多い、とTwitterを見ながら思います。
少なくとも私は摂理に来て、自分の輝く位置を見つけました。そして、神様は全ての人が輝く位置をご存じです。創造主ですから。

ところが実際、肢体は多くあるが、からだは一つなのである。目は手にむかって、「おまえはいらない」とは言えず、また頭は足にむかって、「おまえはいらない」とも言えない。そうではなく、むしろ、からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり、からだのうちで、他よりも見劣りがすると思えるところに、ものを着せていっそう見よくする。麗しくない部分はいっそう麗しくするが、麗しい部分はそうする必要がない。神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和をお与えになったのである。それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり合うためなのである。もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。 -コリント人への第一の手紙12章20-27節

 

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。

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