どんなに惨めでも、足りなくても…変わらず包んでくださる愛

こんばんは、satoです。

人には誰しも弱点があります。
そして、「人には見られたくないところ」、劣等感を感じるところもまた、誰しもが持っています。
劣等感、コンプレックスが強い人は、自分に対して恥ずかしい気持ちが強く…人に見られたくない思いが強いがために時には問題が起こります。
人に何か言われると激しい言葉で反論してしまったり、自分の姿を見られまいと色々(時にはおかしい)メイクをしたり、服装を変えたり、言動をおかしくしたり…。

時には「自分の間違い」によって人から後ろ指をさされることもあります。
また、「自分が間違いでなく人の間違い」でそうなることもあります。たとえば痴漢と間違えられたり…いわゆる冤罪です。
たとえ間違いだとしても一度疑われただけで社会的に抹殺されてしまうことすら起こり得ます。
その場合、無念さはいかばかりでしょうか。

自分の間違いであれ、人の間違いであれ、あるいは自分の弱点であれ…それによって自分が惨めに感じ、時には生きることすら諦めたくなるときもあります。
私も、自分がうまくできなかったとき、罪を犯したときには「本当に自分が惨め」だと感じ、泣きたくなる時もあります。
時間をうまく使えなかったこと、見てはいけないものを見てしまったこと、間違って人に話をしたこと…言葉の罪を犯したこと…様々に罪を犯したときに、本当に心が痛く、苦しくなります。
時には教会に行きたくなくなる、というより「申し訳なさすぎて行くのがためらわれる」時もあります。

社会では、間違いは指摘され批判されます。
そうすることによって自分の足りないところが発見されて磨かれることもあります。しかし、時には批判を通り越して「人格を非難」されることが多くあります。また、単なる指摘でなく感情的な悪口、怨嗟、言葉の暴力にさらされることもあります。
しかし、神様は…足りないところを直接指摘なさることはしません。

叱る時は<ボールペンの先>で接するように「手紙」で直接叱るより、<ボールペンの柔らかい方>で接するように「その良心」を叱って悟るようにさせます。
みんな騙せても「自分の良心」は騙せないからです。

鄭明析先生の主日礼拝の御言葉「<人間>もどう接し使うかにかかっているし、 <環境>もどう接し使うかにかかっている」より

神様はいつも「私たちが先に気づけるように」なさいます。そうしてこそ、自分から望んで直せるし、互いに心が痛くないからです。
でも、どうしてそうなさるのでしょうか?

ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。

口語訳聖書 ペテロの第二の手紙3章9節

神様は、間違ったことをしたとしても、そこから戻ってきて正しい道に行くことを何よりも願われます。
そして、

こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。

口語訳聖書 マタイによる福音書5章45節

神様は間違っている人も、正しい人と同じくらい愛しています。生きられるようにすべての環境を整え、その心を慰め、苦しんでいる霊魂を癒したくて…その関心を注ぎます。
神様は自分が「劣等感」を感じることに対しても、一つ一つ向き合って受け入れてくださいます。
しかし、その心は「自分たちが神様の方に向かう時」感じるようになります。
祈り、御言葉を聞くときいつでも答えてくださいます。特に「悔い改め、翻すとき」、その祈りに必ず答えられます。

劣等感を克服するには…まずは「劣等感を感じる自分の部分を受け入れる」ところから始まります。
そして、それには「その部分を愛してくれる存在」が必要です。誰が、「自分から見て惨めなもの」を持つ自分を本当に愛してくださるでしょうか?
私もこれがなかなか抜け出せず、ずっと同じようなことをしてしまう自分に苛立ち、責めていました。
それでも、神様が見捨てることなく人を通してたくさん愛してくださったこと、自分の過去の惨めな気持ちを正直に告げて、受け止めてくださったこと…長い時間をかけて、段々と自分を愛せるようになり、深く向き合えるようになりました。そして、劣等感が少しずつなくなっていきました。

「劣等感」に傷つく心に少しでも神様の愛が届くようお祈りします。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。