どうして人は勉強するのか?

おはようございます、satoです。

教育系の仕事を幾つかしていて思うのは、勉強することに興味が持てない子供たちに勉強させるのは本当に難しいなということです。
そもそも学校の勉強というのは正直やりたいものではない、といえばそれまでですが(^_^;)私も勉強はあまり好きではありませんでしたね…(笑)
しかし、それでも「何かを知りたい、学びたい」という欲求、「分からないものを分かるようにしたい」という姿勢があるかによって学校の勉強を取り組む時にその結果が大きく変わってきます。
私も多くの子供たちに教えてきましたが、そのような姿勢がある子たちは積極的に質問しますし、より積極的に取り組んでいます。
しかし、そのような姿勢がない子には何を言っても勉強をしてきません…。そこをどうにかするのが私の仕事なのですが、どのようにすれば良いのかは常にもがいています。

そこで今日は「何かを知ること、学ぶこと、分かること」がどうして面白いのか、個人的感覚で一つ話をしてみようと思います。

私が思う勉強する目的と面白さ

私が思う「勉強の目的と面白さ」は見る世界が広がるというところにあると思います。
自分が知らなかった世界を知ることによって「世界の広さ」を知るようになり、「より大きな視野を持って生きる」ことができます。
歴史を知れば、1年先の自分、だけでなく100年、1000年先まで見た人生を考えるようになります。
物理法則を知れば、「どのようにして現象が起こるのか」を知り、それを利用して予測したり、回避したり、利用することができます。
違う言語(英語とか韓国語とか)を知れば、交流できる人が広がります。

自分たちが生きている世界というのは、実は結構広く、壮大なものです。これは時間軸としては宇宙だけでも宇宙創生から137億年というスケールがあり、人間の歴史だけでも数万年、日本の歴史でも2000年と大きなものです。そして、空間的には今いる場所だけでなく日本全体、地球全体、さらには月や太陽、宇宙系、そしてその先にまで広がっているわけです。

しかし、ただ自分たちが生きているだけではそのことを知ることができません。
これらの情報はその世界にいる、その世界を知る他の誰か(あるいは何か)によって教えてもらい、学ぶことでしか得ることができません。
今の世の中だとインターネットで色々な情報が得られますが、それだって他の人が自分が得た、あるいは考えた情報に他なりません(情報が勝手に出てきた、ということはないわけです)

その「自分の知らない世界を知る」ということが勉強することの面白さ、でもあるのですよね。

それではどうして…

学校の勉強は「面白くない」のでしょうか?

…いや、正直面白くありませんよね??
実際、勉強が楽しい、と思う子供が自ら勉強するのであって、そういう子が少ない、というのは「学校の勉強が楽しくない」と感じているからだと思います。
また、最近は「新しいことを知りたい」と思う子供が減っているなぁとも感じています。

学校の勉強が楽しくない…そう感じる子供が多い、と書きましたが、その理由の一つに

「今の勉強は『予め答えが決まっている問題を、予め教えられた方法で解く訓練』をすることに主眼が置かれている」から

というものがあると私は思います。

たとえば、学校で習う数学は解法が予め教えられ、それを繰り返し計算して出来るようにする、という流れになっています。
そこでは答えが合ってさえいれば点数をもらえます。逆に「答えが合わない」なら減点されます。

歴史で言うと「関ヶ原の戦いは何年に起きて、誰が勝ったか」という事実を答えさせる問題が多いです。

ここで問題なのはそれが分かることで何が出来るのか、その目的が不明瞭であるということです。
これがはっきりしないから、子供たちとしても楽しさが分からなくなります。

数学の解法を理解し、それを出来るようにすることそれ自体は必要なことです。
解法の訓練をすることで「計算できるようにする、理解できるようにする」というのはとても必要なことです。しかし、それを使って何をするのか、というところはあまり明確になっていないし、学校の試験では出てこないことが多いです。

数学において計算や式変形の訓練をするのはその先に出てくる多くの「数式を用いた概念」を理解するためです。
「この先に、訓練しておいたことを用いることがあるんだ」って分かるか、それとも目的も知らないままただ「これをやれ」と言われるままにやるのか、これによって子供たちのモチベーションが大きく変わります。
(と、ここまで書いていますが、私自身もまだまだ研究不足でここまで先を見据えた教え方ができていないことも多いです…反省)

歴史の話もそうで、現在の歴史は「暗記」科目とされていますが、本来歴史を知って得られる面白さは「その時代の人々の考えを知ること」や「その時代を通して、今の時代にどのような影響があったのか」など『今の自分とのつながり』が見えるときに起こるものです。
このことを子供たちに教えるのは難しいですが、子供たちがそれを考える機会を与えられればもっと学校の勉強が面白くなるのかな…と思っています。

今は「知りたいことを手軽に知れる」時代

そして、もう一つ、今の時代は昔と大きく変化していることがあります。
それはインターネットの普及によって「子供たちが知りたいと思った知識・情報を簡単に得られる」時代になったということです。

昔なら、教師は「知識の門番・橋渡し役」として知識・情報を伝達することが役割となっていました。
しかし、今はインターネットを使って子供たちが適当な言葉を使えば知識を得られます。そういう意味では、教師と子供たちは「同等の立場」になっています。

今では子供たちのほうが知識を持っている、なんてこともあります。私も分野によってはむしろ子供たちに教えてもらう、なんてことも…(^_^;)

このように「知りたいことを知れる」時代に生きている私達にとって知識を得るための「学校の勉強」は魅力がないものとなってしまいます。だって、好きな時に調べれば得られる問題だから。
方程式の解法だって、年号だって、検索すればだいたい分かります。

…それでは、「知りたいことを手軽に知れる」今、「勉強する」ことに何の意味があるのでしょうか?

「知識」から「学び方」へ

私の中で感じる「学校の勉強」の大切さ、それは勉強の仕方…得た知識の分別や使い方、どうやって新しい知識を得るのかということを学ぶことにあるのかなと思います。

まず、昨今ネットを通じて様々な知識を得られることは先ほど書いた通りですが、ネットで書かれている情報が正しいとは限りません。
それは「自由に誰もが発信できる」今の時代ならではの問題なのかなと思いますが、誰でも発信できるということは「間違った情報も含まれる」ということです。
ある人は冗談で、ある人は悪意を持って、ある人は「それが正しい」と思って、嘘の情報を流すことがあるわけですね。

では、その中でどのようにして「真実」を得ていくのか、その基礎知識となるのが学校の勉強で学んだことなのかなと思っています。そして、この基礎知識だけでなく

「どのようにしてその情報が正しいのかを検討していくのか」

「新しい知識を学ぶ姿勢」

「自分が得た知識をどのように発信し、整理するのか」

こういったことを学べるのが学校の勉強だと私は考えています。
つまり、知識を得るだけならネットの情報で十分だったとしても、その知識の得方や検討、整理、発信と言ったところも含めて学べるのは現段階では学校が一番の機会ではないか、と思っています。

もっと言うと、単に知識を得る、という面だけでみても、「ネットに書かれている知識」だけでは不足しているところを補えるのが学校の授業だと思っています。
「予め予習していた内容で自分が分からないと感じたところが授業で理解できた」という経験をされた方もいるかと思いますが、これはいつでもそうでどうしても自分が見ているだけだと書かれている情報を見落としていることがあります。
これは書かれている情報を全て見ているようで「自分が見たいところに集中してしまう」ことが起こるからです。

加えて、全部の知識を得ていたとしても先生から教えられる「言語化されていない情報」はネットから得られないものがあります。これは「見る視点」とか「発想」とか、その他色々ありますが、こう言った情報も見逃せなかったりします。これは「数式と計算によって進む」数学でもそうです。

「変化」する時代だからこそ

今学校に行っている人もいつかは「社会人になって働く」ことになります。
その際に一番気をつけたいことは今は特に変化が激しい時代であるということです。
社会のルールも変わりますし、様々な新技術も出てきます。
今までだったらヨシとされていたものもダメになることがありますし、その逆もあります。
こう言った変わり続ける社会で生き残るためには何かしらの勉強が必要です。社会人になっても勉強は続くのです。…むしろ、社会人の方がもっと新しいことを学ばないといけないのです。

常に変化する社会に適応し、生き残ろうとすると自然と勉強が必要になります。
そうなった時に「勉強を少しでもしたことがある人」と「勉強の仕方が分からない人」ではどうしても差が出てしまうのです…。勉強を嫌っていると、社会に出てもうまく行かないことが…。

「勉強」はなんでもいい…ただし

とここまで書きましたが、「勉強」というのは何も学校の勉強に限らなくても良いのです。
何か一つ自分が成し遂げたい!と思うことを通して行えば良いのです。

例えば、スポーツで勝ちたいとなれば、自然と「どのようにすれば勝てるのか」ルールを勉強しますし、体の動かし方や戦略、戦術を考え、試行錯誤すると思います。

また、ゲームをするにしても「それで勝ちたい」となれば自ずと動き方や用語を学びますし、練習をするようになると思います。

実を言うと、「勉強する」ことはどの分野でもある一定以上の水準に達するなら必要になってくるわけですね。
勉強しないでその水準を超えられる人は「天才」と言って良いでしょう。

なので、勉強の仕方を学ぶと言うこと自体はなんでも達成可能とも言えます。

一方で、我々が生きている社会というのは大部分が学校で習ってきたことを基本として動いています。
言い換えると、学校で学んだ知識がない状態だと社会の仕組みで分からないことが増えます。
そうなるとトラブルを起こしやすくなり、自分達が生きづらいわけですね。

例えば、私は「数学」が専門分野ですが、今このように発信しているのは「国語」で勉強したり、読書感想文を書いた経験が生きています。
この間韓国に行って一人はぐれた時は(カタゴト)「英語」で現地の方とお話しできたからなんとか乗り切れました。
(+韓国語が読めたからというのもあるけど)
「歴史」や「地理」で人の背景を知ってよりよく交流できますし、政治については「政経」で学んだことがあります。
様々な製品について吟味できるのは「理科」の知識があるからです。

このように「専門分野」以外も使うのです。ここで大事なのはそれが断片的なものでも大丈夫なのです。0でなければ。
私も流暢に英語が話せるわけでない…どころか咄嗟に一文作れるかも怪しい(一応英語で論文を書いてますので、時間をかければ書くことはできます)ですが、それでも基本の単語さえ知っていれば案外できることはあるのです。

まとめ

なんだかんだ書きましたが、結局言いたいのは学校の勉強は無駄にならないから、ひとまず勉強したらいいよってことです。
この文章が少しでも何かの参考になれば幸いです。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。