神様との関係は時代ごとに変化している。

おはようございます、satoです。

昨今の私の課題の一つが「自分自身の肯定感が低い」ということです。
人に指摘されると、それがどんなに人格的で責めるような言葉でなくても、何か「お前はダメだ」と言われている感覚がしていて、それを深く考えると「自己肯定感が低い」ということに繋がりました。
これはたとえ自分から尋ねても、自分でこれはいけないと分かっていても起こってしまうのです。
「上手く出来て初めて認められる」という認識も残っています。この辺りは本当に時間をかけて少しずつ変化させていきたいところです。

自己肯定感を磨くためには、自分が愛されていることをいつも思い出さないといけません。
神様は無条件「私」を愛してくださる、それも「自分の恋人」として愛している、ということを摂理の御言葉で学びました。これは次の聖句にも書かれていることです。

あなたを造られた者はあなたの夫であって、その名は万軍の主。あなたをあがなわれる者は、イスラエルの聖者であって、全地の神ととなえられる。

口語訳聖書 イザヤ書54章5節

聖書の歴史を振り返ると旧約時代は十戒を中心に神様を「主人」として、しもべのように従ってきました。実際、

イスラエルの人々は、わたしのしもべだからである。彼らはわたしがエジプトの国から導き出したわたしのしもべである。わたしはあなたがたの神、主である。

口語訳聖書 レビ記25章33節

この聖句に書かれています。これはどんなに神様に忠誠を尽くした人だとしてもそうで、モーセやエリヤなどにも「しもべ」であるという表現を使っています。

それが変わったのは新約時代。
イエス様に対して「神の子」「ひとりご」という表現をするようになり、また神様はイエス様を信じ、ついてくる人に対して「あなたたちは神様の子、神様は父親だ」と話されました。

あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。

口語訳聖書 ガラテヤ人への手紙3章26節

このように、神様との関係性は時代を追う毎に変わっていっていますが、そもそもこれは本来神様が願っていることではないわけです。
それは、本来神様と私達の関係は「新郎新婦、恋人」の関係である、ということが最初に挙げた聖句から分かります。
それがどうして崩れてしまったのか、というと「一番最初に神様を信じた人間」であるアダムが「善悪を知る木の実を取って食べる」という罪を犯したからです。(これが実際どのような罪であるのか、これは聖書の深い話なのです)

女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。-創世記3章6節

更に人に言われた、「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、
地はあなたのためにのろわれ、
あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。
地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、
あなたは野の草を食べるであろう。
あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、
あなたは土から取られたのだから。
あなたは、ちりだから、ちりに帰る」。

口語訳聖書 創世記3章17-19節

このことによって、神様と私達の関係が壊れてしまい、他人同士になってしまったのです。だから、旧約はしもべと主人という遠い間柄から始まりました。

日本に生きる私達にとって、神様という概念はとても遠いものでした。だから、まだ神様が無条件愛すると言われてもしっくり来ない人もいます。新約聖書に「異邦人」という表現がありますが、これは「神様を信じていない人たち、信仰の主管圏の外にいる人たち」を表しています。それでいうと私たちは完全に「異邦人」です。
これは私もそうです。元々神様を知らないところから来たので、神様のことをいまだにはっきりわかっていません。
前よりは近くなりましたが、もっと近くしなければなりません。
だけど、神様は愛してくださっていますから、まずはそのことを認めて、その上で自分が愛されていることを実感していきたいです。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。