「しなければならない」に縛られていないか?

おはようございます、satoです。

コロナになった際に体調を崩して以来、しばらく精神的に負荷がかかっていたなぁと感じております。そういうわけで休み休みすべきことをしています。
休んでいる時にふと考えるのは、自分自身の生活が「ルーティンのように」なっていることです。もちろん、調子がいい時には続けられるのですが、時々「ふと苦しくなる時」「無味乾燥に感じられる時」があります。
こういう時、私は無性に「行ったことのない世界」に行きたくなります。たとえば、前に見た漫画とか小説の続きに興味を持ったり、いつも行かないような場所に行ったり…。
でも、これってどうしてだろう?と思っていました。

一つには「現実からの逃避」というものがあります。
今のバイトも、仕事も、正直いいし、やりがいはあるのですが、何故か無性に疲れているのです。そして、自分の位置はなかなか進まず、変わらない現状…そういったところからの回避行動なのではないか、ということです。確かにそういう部分はあります。
でも、それだけではない気もしています。それは自分にとって「回避行動」に意味はない、ということを過去の経験を通して悟っているから。
回避行動しても、現状は変わらない。少しでも自分がすべきことをして初めて状況は変わる、ということを様々な経験を通してしっかりと認識しています。

それでは、どうして行えないのだろうか?と言いますと…。
端的に言えばしなければならないことに縛られているからです。…これってどういうことかと言いますと、しなければならないことが多いほど、「自分のしたいこと、楽しいこと」を後回しにしがちです。
もちろん、自分のすべきことを果たすことはとても大事なことですし、責任が伴うのでしなければなりません。
しかし、自分の体力の無さ(≒怠惰)のせいで、「すべきことしかできていない」(正確には「短期的に」すべきこと)状態が続いているのです。
こういう時「すべきことをしていないのに、楽しんではいけない」と考えてしまいます。

数学の研究もしたいし、新しい知見を得ることもしたいことなのですが、それだけではないのです…。
数学だけでなく、自分には「やってて楽しいこと」が必要だな、と。気分転換的な。それに溺れるととんでもないことになりますが…^^;

しなければならないことを後回しにして「したいこと」をしたら悪いのではないか?

という考え方もありましたが、以前お世話になった方から「自分の信仰的に気分が良くない時は、自分の楽しいと思うことをしたらいい」というアドバイスを頂いたことがありました。
それで、以前は絵を描いたのでした。そうしたら、気分が晴れて神様を愛することができました。

ところで、「すべきことをしていないのに楽しんではいけない」という発想はどこから来ているのかと考えた時に、小学校の時に授業で終わらなかった課題(図工の絵の課題)があったのに放課後遊びに行ったら担任の先生にかなり強く怒られた、ということを思い出しました。
確かにすべきことをしなければならなかったので、優先順位を知る上ではとても大事な指導ではあったのですが、それと同時に絵を描くことをもっと楽しみたかったなぁ…とも思いました。
今もそうですが、絵を描くときの「やり方」がちゃんと分かってなくてどうしても苦痛に感じる面があります。そういうことを学んでみたいなぁ…と改めて思いました。

今は気分転換として「推し活」をしていますが、さらに上の…自分の作品も作れるようになりたいなぁ…(´っ・ω・)っ

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。