自分に自信を持つことについて

おはようございます、satoです。
今日の御言葉を聞きながら、ふと自分のお祈りがどうもうまくできない原因が「自分を否定する考えが強くなっているから」であることに気づきました。
今日の御言葉が「自分の救いを貴重に思いなさい」という主題で、自分が救われたことに対する価値をもっと深く悟らせるものだったのですが…。

神様は私に「あなたは救われている」「私が共にしている」そのことに自信を持ちなさい、とおっしゃられているように感じました。確かにそれはその通りです。
その一方で、自分を否定してしまっていた原因が「自分がすべきことができていない(例:明け方のお祈りができていない)」「すべきことがあるのに、それより先に自分がしたいことをしてしまっている」等、自分の中で生活をうまく治められていないところにありました。後者については以前書いたように「予め目標を決めて、それを達成できてからしたいことをやる」とすることでちょっとコントロールできるようになってきたのですが。

このことについてずっとお祈りをしていたら、ふと「そもそも何をするかより大事なのは”神様と一緒にやっているのか、主のことを考えているのか”だよなぁ」ということを思い出しました。自分は「何をするか」に囚われていましたが、それより「神様と一緒にやっているのか」を意識すべきだったと思い出せたので、ちょっと調子が良くなりました。

この辺りを考えながら、最近の私は自己肯定の仕方を「ダメなことをやっていても良い」という方向にしていた気がするのですが、そうでなくて「ダメなことをやっているけど、修正できる」という方向に自信を持つべきだなぁと感じました。
「できなくてもいい」というのは自分の可能性を否定するという方向で自己肯定とは程遠い考え方だった、ということをある漫画を通して気づきました。そうでなく、「できることを信じる」のが正しい肯定の仕方なんですね…。
そもそも、最初の私は「できない自分をダメだと責めていた」ので…それに比べたらだいぶ成長したのかなと思います。
信仰的にも救われた私ですが、このように少しずつ自分の心や考えも成長・理解できてきたことは大きいと感じます。この価値を分かって、これからも頑張っていきたいと思います。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。