摂理で感じた「自分」を愛することの大切さ

こんばんは、satoです。

私が摂理に来てから一番大切だなと学んだのは「自分」を愛することです。ややこしいかもしれませんが、これは「私がいてもいい」というか、とにかく「自分を許すこと」の大切さという意味で、ナルシストとか高慢とか、そういうのとは異なります。

私はいろいろ失敗した自分、というか「自分がしようとしていたのに、できなかったこと」とか「期待に答えられなかったこと」とか、そういうところが見えてしまうとひどく落ち込んでしまいます。
ある時、しばらくこの重い心と向き合っているうちに、傷だらけの自分の姿が見えたのです。最初は「私のしたことでこんなに傷つくなんて…」というショックと「でも、私は楽しかったのに…」という幾分か身勝手な考えを持っていました。
自分が好きなことに溺れてしまって、自分が好きなように考えてしまって、失敗をしたのですが…。

そこで、イメージとしてとにかく抱きしめてあげました。傷ついている私を。
そうしているうちに、私は気づいたのです。
何をするにしても、まずは私自身を愛して、ゆっくりでもいいから天の愛を自分に注いで上げることが最優先だ。と。

神様は「愛を受けたい」と思うなら、まずは「あなたが私を先に愛しなさい」という話をされました。ここで、「神様を先に愛する」とはどういう意味なのでしょうか?
摂理の御言葉では、これについて次のような明確な答えが与えられています。

「神様の望むとおりに行なうことだ」

と。では、神様は何を望んでいるのか、というと「私を愛すること、命を愛すること」なんです。そして「私からの愛を受けること、命と愛し合うこと」なんですよね。
それなら、まずは自分自身を神様の御言葉で学んだとおりに愛してあげる、というのも、神様の望むとおりにして差し上げることだなと私は気づいたのです。

これは簡単なことではなかったりします。自分が過去生きてきてしていたことに目がいったら、神様の愛で愛してあげる、ということが出来なかったりするからです。
特に、私はそういうところに正直負担を感じていました。

最近自分の心の根源、特に幼少期の自分の認識についてフォーカスを当てて考えていたのですが、今日思ったのが「自分を大切にするとはどういうことか?」ということでした。これについては割とすぐに自分の心や在り方を大事にし、それを外側とうまく調整していくことだと答えが出ました。
今までも「自分の心を大事に」していたつもりでしたが、これと外側からの働きかけが衝突した際に「外側に従う」か「自分の心に従う」かの極端な2択をしがちでした。
しかし、過去摂理で自分の特性に合わせながら御言葉を無理なく実践してきた経験などを経て自分の心の在り方は変えられないけど、それを神様に合わせることは可能で、それが両方を尊重するやり方なのだと悟りました。
このことがちゃんと理解できるようになったのは確かな成長を感じます。

しかし、一方で「この次の段階」の問題を考えた時に一気に自分の中に感覚がなくなりました。それは2つあります。

一つ、自分の心や在り方をどう大切にするかは分かったけど、どうやって「物を大切に扱う」のかが分かりませんでした。
無論今も大切な物(推しグッズとか)はありますが、それをどうしたら大切に扱っているのかというのがピンと来ないのです。

二つ、自分が過去大切に扱われた、という感覚がなく、それが苦しみの根源となっているのです。
この感覚を正確に述べるなら放っておかれたという言葉になるでしょうか。

この二つは実は密接に関わっています。

私は幼少期の頃、親から放っておかれている状態のまま生活していたような気がします。
そもそも私は物心ついた時からテレビを一人でつけて見るような子供だったので、弟がいて/仕事で忙しい親にとっては有り難かった面もあったでしょう。もしかしたら、無意識下でそのことを察していた可能性すらあります。
しかし、成長するにつれ「もっと構ってほしい」と思った私は、好奇心のままに色々物に触れるようになりました。
で、コントロールができなかった私はよく物を壊していました。それを見て親はかなり怒りました。
このことを思い出した時、私は「私より物の方がもっと大事なの??」という疑問を抱えていた、ような気がしました。なんせ自分が叩かれても「両方」怒られましたし。
そして、どうやって扱ったらいいかは全く教えてもらえませんでした。これは本当に教えてもらえなくて…よく漫画や本を読みっぱなしのまま置いていってしまうのですが、それで怒られることはあっても「どこに置けばいいのか」は伝わっていませんでした。

ここまで書いていて、私が「放っておかれた」と感じる感覚の一端が見えてきたような感じがします。
私は自分がどうすればいいのかを親から「教えてもらう」、あるいは「一緒にやる」経験がほとんどなかったのです。

唯一「勉強」だけは教えてもらったこともあり、母と一緒に考えてもらったこともありました。
確か小学4年生の頃チャレンジの解答に分数の四則演算が書いてあったのですが、それについて親に尋ねたことがありました。割り算だけどのようにやるのか分からなくてずっと考えていたのですが、私がお風呂に入っていた時に母親が来て「分母と分子を逆にする」ってことに気づいて教えてくれました。その時の感動が今も数学をやっている最大の理由だったりします。

そんな私ですが、「どうやったら自分を大切にできるか」という問題を自分の中で答えられたのは、それだけ「自分を愛してくださる神様がいた」からであり、「神様と一緒に自分を愛していったから」でもあります。
そのことを考えると改めて感謝だなと思います。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。